頼まれていた言伝を終え、博雅は控えの間を出た。暑さも少しばかり和らぎ始めた文月の終わりごろ、都では相撲節会を明日に控えていた。博雅もここ最近非常に忙しくしていたが、明日でそれも一段落するだろう。
戻ったらあれをしてこれをして、と考えを巡らせる博雅は、ふと廊下を此方へ向かってくる人の姿を捉えた。
「おお、晴明!」
彼の到着も待たず、大股で歩み寄る。内裏で会うのは珍しいことだった。博雅はたまに、何となく陰陽寮の方へと足を向けてみるのだが、それでも彼の姿を見かけることはほとんどない。
晴明はおらんかな、ときょろきょろしてみても、大概は不審そうな目で見られ、すごすごと帰ってくるのが常である。ああ見えて実は無精な彼のことだ、人目に付くのを面倒臭がって、野鼠のように目立たぬ所を行き来しているのだろう。
「これは、博雅さま。お久しゅうございます」
「ほんとうに久しぶりだな。おまえも忙しかったのか」
「ええ、ありがたいことに。それでも、博雅さまほどには及びませぬが」
目を伏せ、晴明はあくまで慇懃に答える。少しばかりもどかしくはあったが、彼のその態度は自分と彼自身を守るためのものだと分かっていたから、もはや博雅がそれに言及することは無かった。
「明日が終われば、片が付くと思うのだ。だから、夜はおまえのところへ行ってもよいか」
率直な言葉に、晴明の唇がほんの僅か綻んだ。一友人から恋人となっても、博雅は難解な駆け引きや、含みのある言い回しなどといったものとは縁が無い。衒いの無い彼の言葉はともすれば無粋とされかねない物であったが、晴明にはそれがひどく心地よかった。
「もちろんのこと。お待ち申しております」
晴明が頭を垂れたそのとき、隣の障子がすうと開いた。そこから出てきた男は博雅を見て、おう、と声を上げた。
「博雅どの、丁度よかった」
「――――では、私はこれにて」
再び頭を下げ、博雅が応えるのも待たず、晴明は速やかにその場を去った。足音も無く遠ざかるその背を見送る博雅の、その隣に男は立った。博雅と同様、昇殿を許された身である彼は、たいそう恰幅のよい体つきをしている。
「ほう、あれは安倍晴明どのですかな」
「ええ。お会いしたことはありませんでしたか」
「遠目からちらと見かけた程度しか。…しかし博雅どのが親しくしておいでだというのは、ほんとうだったのですな」
「そうなのです。あれはよい男ですよ」
「そうでしょうな。あのような者を手にしたというのは、さぞ鼻の高いことでしょう」
「…ええ、まあ」
その言い回しに、博雅は僅かに困惑した。それを意に介すこともなく、男は口ひげをしごきながら言葉を続けた。
「実力は当代随一と言われ、帝からの信頼も厚い。その上見た目もなかなかに麗しい、まるで女のような――――」
そこまで言って、彼はにやりと笑った。
「まさに、侍らすにはふさわしい男でしょう。心ひそかにあなたを羨む者は、少なくはないでしょうな――――」
次の日のこと、博雅は晴明の屋敷の濡れ縁に座していた。手にした杯を干し、博雅はこっそりと、隣に座る晴明を眺めた。
立てた片膝の上に肘をつき、柱に背を預けている。唇は紅を刷いたように紅い。半ば閉じた瞳は何を見ているのか、はたまた何も見てはいないのか。
昨日の同僚の言葉を思い出す。陰陽師としての実力と、秀でた見た目。その二つをもって、彼は晴明を侍らすにふさわしいと評した。確かに彼の実力は折り紙つきで、博雅こそその才覚を最も近くで見てきたと思う。鬼となった人の身を、迷うた人の心を、彼はいつでもあるべき場所に戻してきた。相手が何であり、どのような姿をしていても、彼が怯んだのを見たことが無かった。晴明は強い。もし晴明を意のままに従わせることができたなら、それはこの都において強大な力を持つことに繋がるだろう。
「おれの顔に何かついているかよ、博雅」
突然に、晴明が声を発した。青みがかった茶色の瞳が、流し目にこちらを見た。
「い、いや、何でもない」
「ふうん」
博雅はどぎまぎしたが、晴明はそれ以上言及することもなく、博雅と自分の杯に酒を注いだ。空になった瓶子を傍らに置くと、間をおかず蜜虫が現れ、新しいものと替えていった。
「おまえ、今夜の還饗は出なくともよかったのか」
「よいのだ。皆酔うておるから、おれがおらんでも誰も気にせぬよ」
相撲節会の後には、近衛府による還饗が執り行われる。博雅はその宴の最初こそ顔を出したが、早々に抜け出して晴明の屋敷を訪れていた。
「そうか。おまえにとっては、あちらで酔うかこちらで酔うかの違いだったな」
「ばか。――――おまえに、会いたかったのだ」
ふふ、と晴明は笑い、紅い唇に杯を運んだ。
その横顔を博雅は、再びこっそりと眺める。彼の顔が好きだった。どんな表情も好きだが、博雅にだけ見せる笑顔が一番好きだった。人は彼を美しいと言い、陰陽師としての実力を評価されている。しかし彼の内面を評価している者がどれほどいるだろうか。
そこまで考えて、ふと思い立つ。自分は彼の内面を、本当に見ているのだろうか。
彼は優しい男だ。誰よりも強くて頭が良くて、そのくせ不器用なせいで、全てを自分だけで背負い込んでしまう。皮肉屋で実は無精だが、足元に縋りつく人を言外に振り払うことはしない。そのせいで自分が傷付いても、平気な顔をして笑っている。
出会ってからすぐに、彼と一緒にいるのが心地よいことを知った。それから彼の内面に触れる機会が増えた。毅然と立つ背に負っているものが、朧げながらに見えてきた。何に対峙しても臆さない彼の、袖の内に隠された指先が、時折ほんの僅かに震えるのに気付いた。そのどこか張りつめたような佇まいを愛しいと、守りたいと思った。だから博雅は今こうしてここにいる。
しかし彼の見た目が今と異なるものであったら、そう博雅は考える。もし晴明が岩のような大男だったなら。人の二三人も纏めて捻りつぶせるような、博雅に守られる必要など無い、厳つい見た目をしていたら。
果たして自分は彼を愛しただろうか。もちろん友として好きにはなっただろうと思う。彼を助けてやりたいと思っただろう。しかし今のように、触れたい抱きしめたいと考えることがあっただろうか。
瓶子を支える指は白く細い。その手に触れるのが好きだった。しかしこれが自分のように、節の目立つ太い指と、厚い掌を持っていたならば。果たしてそこに手を伸ばしていただろうか。
同僚は晴明を指して言った、まるで女のようであると。人は彼を正当に評価していない、内面を見ていないと思っていた。そして自分は違うと思っていた、しかし果たして本当にそうだろうか。自分も他の者と同様、見た目で彼を好きになったのではないか。自分こそが彼を――――都合よく女扱いしているのではないだろうか。
「今日はやけにぼんやりしておるな、博雅」
気付くと、晴明が自分の顔を覗き込んでいた。気付きもしなかった博雅は、慌てて取り繕う。
「あ、いや、すまん。少しな。考え事をしていた」
「そうか。それならいいが。疲れておるのではないかと思ってな」
「いいや、それほどでもないぞ」
「無理はするなよ。疲れておるなら、今日はもう休め」
小首を傾げ、晴明は言った。その身を博雅は引き寄せ、両腕で抱きしめた。
「そんなことはない。会いたかった、晴明」
「…うん」
晴明は大人しく、身を委ねている。首筋に触れる彼の頬はひんやりとしていて、距離が近くなったことで、身を重ねた時にいつも感じる、微かに甘いような彼の匂いがした。
どちらともなく袖を引いて、二人は身を重ねた。博雅の厚い掌に撫ぜられ、晴明は抑えきれない声を漏らした。夢中になりながらも、博雅の心の隅には、消えない疑念が宿っていた。
こうして彼を抱くのも、自分が彼の外面を見ているからではないだろうか。跳ねる白い腰も、震える睫毛も、自分が欲を抱くのに足るものだからこそ、このような間柄になったのではないか。
手を付いていた晴明が身体を支え切れず、上半身が崩折れた。細い腰を抱えた博雅は、迷いをかき消すようにその身に打ち付けた。晴明の喘ぎ声に微かに苦痛の声が混じり、博雅ははっとして動きを止めた。
「博、雅…すまん、…苦し…」
こちらを見る晴明の目には涙が浮かんでいた。弱みを見せない彼のことだ、口にするということは本当に辛かったのだろう。
「あ…悪い、晴明…」
罪悪感から、声が小さくなった。もどかしさを欲にすり替え、彼にぶつけてしまっていた。愚かな行為だ。博雅は己を恥じた。
腰に添えられた博雅の手に、晴明が己の手をそっと重ねた。
「もう、大丈夫だ。…ゆっくりしてくれ、博雅」
「…うん」
そっと律動を開始すると、晴明の唇から再び甘い喘ぎが漏れた。博雅はその背を抱きしめた。とりあえず今は悩みは置いておこう、そう思った。
触れれば敏感に震える彼の身体が愛おしかった。唇を吸って、好きだ、と何度も言った。苦しい息の下、それでも懸命に見上げて、おれもだよ、博雅、と囁く晴明に、博雅はたまらない思いがした。細い身体に腰を沈め、何度も突き上げると、晴明は白い背を反らしてもがいた。欲に快楽に頭がいっぱいになって、博雅は何も考えられなくなった。ひたすらその果てに向かって貪欲に求め続けた。
晴明の手が、博雅の背を掻き抱いた。
一つの大きな行事が終わり、内裏はゆったりとした、まどろむような空気に包まれていた。
――――近年まれにみる、熱の入った会であったなあ。
――――十一番の取り組みが良かった、あの者は毎晩山へ行き、身の丈ほどの大岩を相手に稽古に励んだそうだよ。
――――道理でその背に鬼神が見えたようであったよ。
他愛もないお喋りが、そこかしこで繰り広げられていた。欄干に肘をつき、博雅はぼんやりとそういった者どもを眺めていた。昨晩、晴明が気を失うように眠りに落ちた後も、博雅はその寝顔をしばし見詰めていた。愛しい、という気持ちが自然と湧いて出る、しかしすぐに、自分は彼の見た目だけでそう考えているのではないか、という不安がふつふつと浮かんでくる。それらの感情が交互に現れて、博雅はどうにも落ち着かず、結局よく眠れなかった。
「――――おや、博雅さまではありませぬか」
己の名を呼ぶ声に振り返ると、黒袍を身に纏った賀茂保憲が、微笑んでこちらを見ていた。
「おお、これは、保憲どの」
「何やら浮かぬ顔をしておられますな。何か悩み事でもおありですか」
「はは。――――ええ、まあ、少し」
「それはいけませんな」
保憲は博雅の隣に立った。人々がのんびりとくつろぐ、うららかな光景に目を遣る。
「晴明にでも相談されてみてはいかがですかな。あれでなかなか、お役に立ちますでしょう」
「…実は、その晴明のことなのです」
「ほう」
黒い瞳が、きらりと博雅を見た。
「あやつが、何かしでかしましたか」
「いえ、あの、そうではなく…その」
博雅はしばし言い淀んだが、
「――――もしよろしければ、私の話を聞いていただけませぬか」
保憲に頭を下げた。このようなことを相談できるのは、彼しかいないと思ったのだ。
「私でよければ、お手伝いいたしましょう」
黒衣の陰陽師は、穏やかに微笑んだ。
「ですから私も結局、晴明の外面しか見ておらず、その男と同じなのではないかと――――」
保憲の屋敷の一室に在り、二人は向かい合って座していた。ここを訪れたのは、博雅は初めてであった。同じ陰陽師といえど、その屋敷の雰囲気は、晴明のものとはまったく違う。彼の屋敷はいつでもひっそりとしており、人の気配が感じられない。博雅の見たことがあるのは、晴明と彼の操る式神だけである。あの屋敷で息をしているのは晴明だけなのではないかと、博雅は薄々思っている。
この屋敷は違っていた。人の気配に満ちており、入れ代わり立ち代わり働く女の姿が見えた。通りかかったのを保憲が捕まえ、何やら指示を与えているのは恐らく彼の弟子なのだろう。廊下から見た庭は灌木が刈り込まれ、きちんと整えられていた。野放図のような晴明の庭とはとても似つかない。
「あやつの所とは、趣が異なりましょう」
廊下をゆく保憲が振り返って笑った。内面を見透かされ、博雅は頭を掻いた。
「ええ、まあ――――」
「あのようにしていては、人が皆離れてしまいますからな。…あちらの方が、博雅さまはお好みですかな?」
「さ、さあ、どうでしょうか」
どぎまぎして博雅は答えた。こちらが本来あるべき姿だと言うことは、博雅にも分かる。晴明の屋敷に初めて通された時には目を見張ったものだった。まるであばら家の庭でないか、そう思った。しかし落ち着いて眺めるうち、草花がのびのびと葉を伸ばすその光景に、ひどく安らいだ気持ちになっていることに博雅は気付いた。口下手な博雅はこのようなときにどう言い表すのかを知らないのだが、これがもののあわれというものかと思う。あの庭は本当に自然のあるがままにしているのだろうか、それともいくらか晴明の意思がはたらいているのか、博雅にはそれは分からなかったが、どちらにしても博雅はあの場所が好きだった。
座敷に落ち着き、博雅の説明を一通り聞いた保憲は、ふむ、と顎に手を当てた。
「では、もしそうであった場合、博雅さまは――――ご自分が許せない、ということでしょうか」
「はい。そうであれば私は、…私は晴明の傍にいる資格が無い、そう思うのです。きっと晴明は、私をそのような男だとは思ってはいないでしょう。私は晴明を騙していることになる」
相変わらず真面目な御仁だ。保憲は半ば呆れ、半ば感心した。自分の感情さえ割り切ることができず、そのようなものと考えを放棄すれば楽なものを、一人悩み苦しんでいる。この余りに一途な男を、一体どう扱ったものか。保憲は思案した。
「美しいものに惹かれると言うのは、人として当然のことでございましょう。月を見て美しいと思う、桜を見て美しいと思う――――これらは全て、心の内に呪が生じたものでございます」
「呪、ですか」
「ええ。晴明から、聞いたことはおありでしょう」
「はい。何度も」
呪と晴明が言った瞬間に、博雅の口がへの字に曲がる。何回このようなことがあったか知れない。せっかく分かったような心持がしていても、彼が呪の話を持ち出すせいで訳の分からないことになってしまう。今とて、呪という言葉を聞いた瞬間に、博雅は眉を顰めそうになった。しかし慌てて我慢した、目の前にいるのは保憲なのだ。彼ならば呪の話であっても、分かりやすく説明してくれるかもしれない。…多分。
「好きだという思いは、自然のうちに湧いてくるものです。美しいものを好きだと思う。これも心のうちに、自然に出づるもの。呪です」
「はい」
「好きなものがあれば、それに触れたいと思うでしょう。美しいものを手に入れたい、傍に置いておきたい。そう考えるのは、人として当然のこと。花はただ花であろうとします。種が地に落ちれば芽が出て、花が咲きましょう。花はただその生を全うしている、それだけのこと。しかし種を蒔くのは人です。己の庭に美しい花を咲かせたい、それ故に種を蒔くのです」
「ふむ…」
「心のうちに、美しい、と感じる呪が生じる。それを求めて生きるは人のみであり、それが人を人たらしめているのです。美しいものを求める、それを否とするならば、人であることを止めるしかないのです」
「…なるほど」
「先ほど仰ったご同僚のお考えは、ですから決して間違ってはいないのです。見た目に美しい、しかも役に立つ。このようなものがあれば、欲しいと考えるは当然のこと」
「間違いでは、ないのですか…」
「愛など元来、自分本位なもの。全ては己の心に生じた呪によるものなのです。己の庭に花を咲かせたいと思う、それが愛なのです」
「自分本位――――」
博雅は俯いた。彼の考え方が正しいのであれば、自分の立場はどうなるのだろう。愛が自分本位だと言うならば、見た目で彼を愛している自分も同様に自分本位なのではないだろうか。
「ならば、私と彼の間には、違いは無いのでしょうか」
「いいえ、彼らと貴方は、違うのです。博雅さま」
「何が、どこがちがうのでしょうか」
縋りつくような博雅の目を、保憲は静かに見返した。
「博雅さまは、晴明も人の子であることをお忘れにならなかった。外側だけでなく、彼の内面に踏み込んだ。そうして彼を、守ろうとしてくださっている。違いますか?」
「…いいえ、そうです。私ではなかなか力が及びませぬが、それでも晴明を守ってやりたいと思っております。少しでも彼を、楽にしてやりたい」
「そうでございましょう。そしてそのように、彼の背負うものに気付いている者が、一体どれほどいるでしょうか」
「…」
「博雅さま。人は晴明を、どのように思っているのでしょうか」
「どのように、とは」
「見た目に秀でている、陰陽師として優れている。それだけではありませんでしょう」
「それは…」
「怪しげな術で人を誑かす、狐の子だから恐ろしい、妖のようなものだ、人を殺すも厭わないに違いない――――」
優しい声音で紡がれた言葉に、博雅はぞっとした。
「晴明の心を見ようとしない者に、自ずとこのような思いが湧くは仕方のないこと。得体の知れないもの、力のあるものを人は恐れるのです。往々にしてこのような考えを持つようになる。それが大方の意見となり、口の端に上ればあたかもそれが真実であるような気がしてくる。更に人は深入りすることを恐れる。そして彼は孤独になる」
晴明の悪い噂を、博雅も度々耳にしてきた。根拠も何も無い、憶測に基づいたものがほとんどで、中には人としての尊厳を踏み躙るような汚らわしい噂もあった。晴明は言わせておけ、と気にも留めないが、博雅は聞き逃すことなどできず、思わず食って掛かったことも幾度かあった。
「博雅さま、貴方はそこが違う。彼の内面に踏み込んだ、それはつまり、その心も大切にしているということです。外面だけでいいならば、彼の幸せなどどうでもいい。何を考えていようが構わない。深入りする必要などない。しかし貴方は、彼を幸せにしたいと願っている。それも博雅さま、御自身の手で。そうでございましょう?」
「それは、もちろんのこと」
「見た目が好きならばそれでいいのです。彼の内面も同様に愛してくだされば。博雅さまは十分に、晴明を大切にされておりますよ」
「…私は、これでよいのでしょうか」
「それでよいのです。外見も内面も愛しておられる、素晴らしいではありませぬか。おぬしの性格だけが好きだ、などと言うより余程よろしいでしょう?」
「――――確かに、その通りですな」
博雅はやっと笑った。このままでいいのだ、ようやくそう思えた。自分はこれまで通り、晴明の傍に在ってもよいのだ。
博雅は程なく屋敷を辞した。足早に去るその背を見送りながら、保憲は弟弟子を思った。幸せ者め、と心の内に呟いた。これほどまでに真剣に想うてくれる相手と出会える者が、一体どれほどいるだろうか。
案内も待たず、のしのしと廊下を歩いてきた博雅を、晴明は常と変らぬ笑みを浮かべて迎えた。
草花が涼風に揺れ、辺りには虫の音が満ちていた。博雅は深々と息を吸い込み、澄んだ空気で胸をいっぱいにした。
「悩みは解決したようだな、博雅」
唐突に声を掛けられ、博雅は驚いて晴明を見た。夕暮れ時、晴明の瞳は明け方の空のような灰青色をしていた。
「分かるのか、晴明」
「分かるとも。おまえはよい漢だからな」
「なんだ。またおれをからかっておるのか」
「いいや、からかってなどおらぬ」
「ふん」
博雅は口を尖らせて、杯を干した。
「おまえのその目は、人をからかっている目だ」
「そう見えるか」
「見える」
「困ったな」
「ふふん」
手酌で、杯に酒を満たしながら、博雅は言った。
「…何を悩んでおったのか、聞かぬのだな。晴明」
「聞いてほしかったか」
「…いいや」
「解決したのならば、それでよいのだ。おれが首を突っ込まずとも、おまえは今幸せなのだろう」
「ああ、幸せだ」
「ならばよい」
博雅は晴明を見た。頬を撫でる風に、心地よさげに目を細めている。蜜虫がそっと置いて行った燈台の灯りが、瞳の中で揺れていた。
「晴明」
「どうした、博雅」
「おまえは、美しいな」
「は?」
あまりの脈絡の無さに、晴明はしばし呆然とした。
「急に何を言い出すのだ、博雅」
「別に何も無いぞ。ただそう思ったから、そう言っただけだ」
「ふうん」
「見た目だけではないぞ。おれはおまえの心根も美しいと思っているのだ」
「ばか。そのようなこと、無闇に人に言うものではない――――」
「なぜだ。ほんとうに思っているから言っているのだぞ。おれはおまえの全てが好きだよ、晴明」
「…ばか」
面を庭に向けてしまった晴明を、博雅は腕の中に捕えた。晴明、と声を掛けても無視されたが、もう一度名を呼ぶと渋々こちらを見た。唇に口付け、好きだぞ、と言うと、やっと晴明は笑った。
その顔が愛しくて強く抱きしめた。苦しいぞ、博雅、と言いながらも、晴明は大人しく身を委ねていた。頬を寄せると、今度は彼の方から口付けてくれた。
これでいいのだと思った。湧き上がるこの感情こそが本物なのだ。