「…っ、」
忘れていた。
杯を持った瞬間、指先に痛みが走る。
よくよく目を凝らさないと見えもしない、しかし人に不快感を与えるには十分なそれに、博雅は眉をしかめた。
「どうした、博雅」
杯を口に運んでいた晴明は、ちらりと博雅を見る。その口元は、いつものように笑みを含んでいるようだった。
「ああ…棘が刺さっているのだ」
「棘か」
「今朝、参内するときに牛車に乗ったのだがな。そのときに刺してしまった。それから抜けんのだ」
「見せてみろ」
背を預けていた柱から離れ、晴明が傍らにやって来る。腰を下ろし、博雅の手を取った。
白い指が武骨な掌を広げる。
日は大分傾いてきている。その手が影に掛からないようにし、晴明は目を凝らした。
「…入ってしまっているな」
「そうだろう。だから抜けんのだ。放っておけばいつかは抜けるだろうが…どうもな」
「ふむ。待っていろ」
手を放し、晴明はつと立ち上がった。そのまま奥に引っ込む。
ほどなく戻ってきた彼が、その手に持っていたのは。
「針か?」
「そうだ。たった今消毒してきた。さあ、手を貸してみろ」
「…お前、まさかそれをおれの指に突き刺すというのではないだろうな」
「よく分かったな。話が早いぞ。手を出せ」
「こ、断る!ただでさえ棘が刺さっておるのに、何故この上針など刺さねばならんのだ」
「何、その棘を取ってやるというのだ。ほれ、さっさとしろ」
さぁさぁと、その男は博雅を急かす。心なしか目が笑っているようだ。気のせいだろうか。
「…おまえ、楽しんではおらんか」
「何が楽しいものか。おまえが痛い思いをしていると言うのに」
「…本当に取ってくれるのか」
「何度も言っているだろう。ほら、手を貸せ」
再び、その手は博雅の手を持ち上げる。ひんやりとした感触が妙に心地よい。
右手にある針が、ゆっくりと近付く。
知らず知らずのうちに、手に力が篭る。
「っ!」
「取れたぞ」
ほっと息をつく。
恐れていた程の痛みは無かった。人差し指を見ると、棘が刺さっていた箇所がぽつりと赤くなっていたが、擦ってももう、あの不快感は無かった。
「あ、ありがとう」
「うむ」
傍らの盆に、針を置く。
と、再びその手が、博雅の腕を捕えた。
「晴明?」
「ついでだ。消毒もしてやる」
その言葉に博雅が反応する前に、晴明はぱくりと先程の指をくわえた。
「せ、晴明!」
温かい口内で、晴明の舌が指をなぞる。指先に重点的に、唾液を絡ませる。
博雅はしばし唖然としたが、しっかりと腕を押さえ込む手を引き剥がし、何とか指を引き抜く。
「馬鹿、おまえ…」
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
博雅が自分の胸元に引き寄せてしまったその手を追うように、晴明は彼に迫る。
「おれの好意を無下にするのか、おまえは」
「いや、そうではなくてだな、」
「ならいいだろう」
「いい訳があるか!」
それでもなお諦めずに手を取ろうとする彼に、博雅はつい嘆息した。
「なんだ、その溜め息は」
「…もう分かったから、おまえ、」
ぎゅう、と腕ごと彼を抱き締め、動きを封じた。
「も少し、大人しくしていろ」
驚いてじたばたとするから、腕の力を強める。
「おい、放せ博雅」
「おまえが言うことを聞かないからだろう」
しっかり抱き込んで放さない。ほどなくして、やっと暴れるのを止めた。
その隙に細い手首を持ち上げ、掌に口付ける。
慌てたように握り込もうとする指を開いて、ぺろっと舌を這わせた。
「な、何を、」
「棘を抜いてもらった上に、消毒までしてくれたからな。お礼だ」
珍しく目を丸くした晴明に笑いかける。彼は目の前の胸に顔を押し付け、
「…馬鹿はおまえだ」
と、呟くように言った。
太陽は、静かに沈んでゆく。
片方の杯に注がれた酒は、ついに干されることは無かった。