しくじった。そう思っても、最早後の祭りだった。
重い身体を引きずるようにして歩を進める。雪を踏みしめる裸足から、体温と共に力も抜けていくように思われた。
細かい雪の吹き付ける中、独り蹲りさめざめと泣く女がいた。それが人ではないと分かっていながら声を掛けたのは、何か己の興を引くようなものでもないかと思ってのことだった。
「何をしておるのだ、このような所で」
そう声を掛けると、女は道満を仰ぎ見た。長い髪は乱れ、窶れて肌は青白かった。
「思い残したことがあるのです―――――」
「何ぞ」
「お聞きいただけまするか」
「言うてみるがよい。それからよ」
「おお―――――」
女の目から涙が溢れた。それを拭い、ずいと道満ににじり寄った。
「私の子は、皆殺されてしまいました」
「誰にじゃ」
その問いには答えなかった。恩讐の余り、女はぎりぎりと歯を鳴らした。風は徐々に強くなり、雪は変わらず降りしきっている。道満は無意識に腕を擦った。
「何があったのじゃ」
「我らがか弱き存在であることは百も承知。しかしあのようなことを、赦すわけにはまいりませぬ。未だ覚えております。悪鬼のようなあの笑い―――――」
女は低く唸った。その目は昏く輝いている。
「だから、私は決めたのです」
「何を決めた」
「此度は私が、人の男を同じ目に遭わせてやることを」
言うや否や、女は道満の左腕に縋りついた。
「何を―――――」
白い指が道満の肩を這う。はあ、と吐いた息が白く煙ることは無い。しかし道満の肌をぞくりと悪寒が走った。
しがみつく女を右手で押し遣る。引き剥がされながらも女は笑う。
「おまえも朽ちればよい。生きながらにしてな―――――」
左肩から先が奇妙に冷たい。女は誰、と言うのではなく、何であったのかと問うべきなのであろう。
しかしその暇も無かった。狂ったように笑い、女はおぼつかぬ足取りで後ろへ下がる。黒い髪がばさりと揺れる。それを追わんとして踏み出した道満の目の前で、その姿は消えた。
彼女に何があったのだろう。何を怨み彼女の魂は取り残されているのだろう。それを考える間もなく、道満は再び歩き出した。見た所何とも無さそうな腕はひどく重く、およそ己のものとは思われなかった。
まずい、と思う。肩口から先は冷え切ってゆく。袖を捲って見てみれば、血の気の無くなった腕が、肩から力無くぶら下がっている。生きながら朽ちよと女は言った。然るべき対処をしなければ、
恐らくその通りになってしまうかもしれぬ。
巣食った邪念を祓うことなど、常ならば造作も無いことであった。しかしここ最近まともな食事にありついておらず、身体はひどく冷え切っている。今それをする気力を道満は持たない。
儂もこれにて仕舞いか、そんな思いが頭を過ぎった。しかし道満は蓬髪を振るった。薄く積もった雪がはらはらと落ちてゆく。ここで死ぬ気は無かった。未だ此岸には飽き足らぬ。
冷えた身体を温められる場所を求め、道満は辺りを見回した。雪に覆われた此処が何処なのか、すぐには思い出せなかったが、そういえばあの男の邸は歩いてゆけぬ距離ではない。
弱った年寄りに門前払いを食わせるほど、彼は冷たくはないはずだ。問題はそこまで辿りつけるか否かであった。忌々しい腕は、徐々にその重さを増してきている。
降りしきる雪の中、道満はゆっくりと進んだ。しかし幾つめの角であろうか、どうにか曲がった所で力尽き、前のめりに倒れた。もはや上体の感覚は無くなり、寒さすらも感じなくなっている。
ただただ力が抜けてゆくのみであった。
ひどく眠い、そう思った。頬に触れる雪の冷たさが、やけに煩わしかった。
目を開いて天井を見上げた。最初に思ったのは、どうやら生き延びたかということであった。上体を起こそうとしたが、泥のように重い。起き上がるのは早々に諦め、道満はすん、と鼻を鳴らした。
微かに漂うのは知った香だった。どこか甘いような、その中に僅かに、幾つかの薬草の混ぜ合せたような不思議な香。
左腕を持ち上げてみる。少し重さを感じはするが、あの冷たさは無くなっていた。拳を握り、また開く。己の意のままに動くことに、少しだけ安心する。
「―――――お目覚めになりましたか」
覚えのある声が聞こえた。首を曲げてそちらを見ると、ちょうど晴明が部屋に入ってくるところであった。
「ご気分はいかがですか」
「うむ、上々じゃ」
「それはようございました」
枕元に晴明は腰を下ろした。
「儂は、此処まで辿り着いたのか」
「ここから少し行った所に、倒れておいででした」
「よう気付いたな」
晴明は黙って笑みを浮かべている。
「儂の腕を診たのかよ」
「はい」
「ふん。手間をかけたな」
「油断なさいましたか」
「要らぬことを聞くでない」
「これは、失礼いたしました」
悪びれた様子も無く晴明は言った。
「儂は、どれほど寝ておった」
「一日」
「ふうん」
道満が頷いた時、赤い衣を纏った女がしずしずと入って来た。その手には湯気の立つ椀を捧げている。
「起きられますか」
晴明に問われ、道満は身体に力を込めた。重いながらも、何とか床の上に身を起こす。
「どうぞ、こちらを―――――」
女が差し出す椀を受け取り、中身を啜る。それは湯気の立つ重湯であった。
「何。酒は無いのか」
「ございませぬ」
「見え透いた嘘をつくでない」
「今はそちらの方がよろしいでしょう。…毒は抜けておりますが、養生なさいませ。命を縮めますよ」
涼しい口調で晴明は言った。
「好きに酒も飲めぬとあっては、儂にとっては死んだも同然よ」
「身体を治されてから、いくらでもお飲みになればよろしいではありませぬか」
「むむ」
「そのように、我儘ばかり言うものではありませぬ」
背筋を伸ばし座る晴明を、道満はじろりと見た。決して納得したわけではない。しかしまた、命を救われたという事実を忘れたわけでも無かった。
道満が器を空にするまで、晴明は黙って見ていた。憎まれ口こそ叩いたものの、身の内から温まる感覚は悪いものではない。ほうと息をつくのを待って、晴明は口を開いた。
「またお休みになりますか」
「うむ。よいか」
「これで追い出すほど、私は鬼ではありませぬよ」
今更断られるとも思われなかったが一応尋ねてみる。可愛げがあるのか無いのか分からない返事を聞きながら、道満はのっそりと寝床に潜り込んだ。目を瞑るとすぐに、晴明が退室する気配があった。
雪は止んだのだろうか。ふとそう思ったが、目を開けるのも億劫であった。
それから二日経った。雪は止みはしたものの、未だ溶けずに残っている。晴明は出てゆけとも、いつまで居ていいとも言わない。冷たい空気は老骨に沁みる。
彼の処置のおかげであろうが、左腕は随分と楽になっていた。しかし咎められぬのをいいことに、道満は未だこの邸で居座っている。
昼が過ぎても尚だらだらと惰眠を貪っていた道満は、話し声に目を覚ました。客人でもあったかと耳を澄ませば、覚えのある声が聞こえてきた。
「―――――なかなかにそそっかしいところもあるのでな」
「して、怪我などはされておらぬのか」
「ああ。打った尻が痛いと嘆いておったがな。それよりもおれが笑ったと言うて、ぷりぷりしておったよ」
「おまえ、まさか笑ったのか」
「いや、まあ、…少しだけだぞ。あんまり可笑しかったものでな。つい」
「それはおまえが悪いぞ、博雅。いかなるときでも、女子が転んだりすればすぐに手を差し伸べるものだ。笑うなどともっての外よ」
何とまあ呑気なことだと思う。当代随一の陰陽師の屋敷を訪ねた殿上人の、わざわざする話がこれなのか。そう思いながらも道満は知らず知らず、その会話に耳を傾けていた。
天と地ほどに離れた身分など気にも留めず、博雅は屈託なく笑う。対する晴明の声の調子も、呆れた様子ながらもどこか丸みを帯びていた。この二人が友という関係に終わらぬことに、
道満はとうに気付いている。しかし改めて聞けば、晴明のこのような寛いだ調子はひどく新鮮に感じられた。
その話の内容をよくよく聞いてみる。どうやら博雅のところに仕える侍女が今朝、この雪で滑って転んだようであった。
「だがな、晴明。あの様子を見れば、おまえとて笑うに決まっておる」
「いいや、おれは笑わぬ」
「笑うさ。教えてやろう。まずは、こう…」
身振り手振りで、博雅は己の見たものを再現しようとしているらしい。
「ほら、見ろ。おまえとて笑うではないか」
博雅の嬉しそうな声が聞こえてきた。どうやら晴明も笑ってしまったらしい。
「ばか。そのように大げさにするやつがあるか」
「大げさではないぞ。本当にこうだったのだ。こう、ひっくり返って、あれ―――――と」
今度ははっきりと、晴明の笑い声が聞こえた。
「ほら。また笑ったぞ、晴明」
「おまえの言うことなど信じられぬ」
「こら、何ということを言うのだ」
そう言う博雅の声も、笑みを含んでいる。
「ともかくだ。そのようなときに笑うおまえが悪い。たとえどれほど可笑しくとも、男たるものぐっと堪え、手を差し出さねばならぬのだ」
「分かっておる。分かっておるのだがつい、自然に笑ってしまったのだ」
「おまえらしいな」
「…そう言うてくれるなよ、晴明」
「まあ、過ぎたことは仕方ない。せいぜい怒られるしかあるまいよ」
「―――――うん」
ただ聞いているだけというのにも飽いて、道満は寝返りを打ち、俯せになった。そしてふと、あの寛いだ様子ならば、酒の一つも出ていてもおかしくはないのではと思い至った。
ゆけば自分も、少しばかり相伴に与かれないだろうか。
「しかし雪と言えば、晴明。おまえ、もう少し衣を重ねてはどうなのだ」
「うん?」
博雅の率直な問い掛けが聞こえてきた。
「このような日でも、おまえは常と変わらぬ格好ではないか。寒くはないのか」
「まあな」
「寒いのだろう」
「冬だからな」
「こら、分かっておるのだろう。真面目に答えぬか」
人を喰ったような返事にも、博雅がへこたれる気配は無い。
「あのな、晴明。…ほれ、このように」
ことり、と杯を置く音がした。
「これほどに冷たいではないか」
博雅が少し怒ったように言う。しかしその声音には、微かに心配そうな響きがあった。
「いつも思うておるのだがな。おまえ、本当にきちんと血が通うておるのか」
「それはおれが、人ではないということかよ」
晴明の声は、面白がっているようであった。しかし博雅は憤然として答えた。
「ばか。このように冷たくて、大丈夫なのかということだよ。今日は殊更に冷たいが、思えばおまえの手はいつもこうではないか」
「そうかな」
「そうだよ。だからせめて、もう少し着込んだらどうだと言うておるのだ。このような手をしておって、おまえの指が千切れでもせぬかと、心配でかなわん」
「ふうん」
「おまえ、本当に分かっておるのか。…ほら、こちらの手も貸せ」
呆れたような声を最後に、しばし会話が途切れた。道満はぼんやりと頬杖をついている。
「―――――これで、少しは温まっただろう」
「おまえの手は温かいな」
「おまえが冷たすぎるのだ。だから、もう少し暖かくしろと言うておるのだぞ」
「おれを心配してくれているのか、博雅」
「当たり前だろう。おまえが身体を病んだりしては嫌に決まっておる」
「ふふん」
道満は頭をぽりぽりと掻いた。酒は欲しいが、何となく出て行きづらい。当たり前のように繰り広げられる会話は、そこだけで世界が完結しているように思わせる。
「しかしな、博雅」
「うん?」
「おれがあまり着込まぬ方が、おまえにとってよいかもしれぬぞ」
「何故だ」
「その方が、おまえも脱がせるのに楽であろう」
ぶほっ、と酒を噴き出す音がした。
「おい、大丈夫か」
「お、おまえな―――――」
博雅はげほげほと咳き込んでいる。何事か言い募ろうとするが、噎せ返る余りに言葉にならない。
「すまぬ。そんなつもりはなかったのだ」
「―――――ばか。もう知らぬ」
少し掠れた声で、やっと博雅は言った。
「怒ったのか、博雅」
「怒ってなどおらぬ」
「頬が膨れておるぞ」
「知らぬ。元からこのような顔だ」
「はて、そうであったか―――――」
道満はのっそりと立ち上がった。このやりとりはこのまま、際限なく続きそうな気がする。それに黙って聞いておれば、何だか腹のあたりがむず痒いような、落ち着かぬ心持がしてくるのだ。
酒の尽きてしまう前にゆくかと、ぺたぺたと濡れ縁を歩く。その足音に気付いた博雅がこちらを見た。
「儂も、ご相伴に与かりたいものですな」
「道満どの。もうお加減はよろしいのですか」
晴明から既に聞いていたらしく、心底心配そうな表情で博雅は問う。先程までの遣り取りを全て聞かれていたとは、夢にも思っていないらしい。
何とまあ人の好いことだと道満は考える。恋人との逢瀬の最中の、いわば闖入者だというのに、煩わしいだとかそう言った顔は全く見せなかった。
「お陰様でな。酒があればもっと早くに良くなると思うのだが、どうやらこの邸では酒は貴重なもののようでな」
「ははあ」
瓶子を前にして、博雅は返答に困っているようであった。晴明はと言えば、素知らぬ顔で庭など眺めている。
「晴明。人が飲んでおるのを見ると辛抱叶わぬ。一舐めだけでも許してくれぬか。…博雅よ、そなたからも何か言うてやってはくれぬか」
「は、…ええと」
博雅は困ったように晴明を見た。それを見返す晴明の目は、やけに据わっている。
「晴明。その、道満どのは少しでも、酒を飲んでは毒なのか」
「毒、というほどではない。しかし薬になると言うこともあるまいよ」
「う、うむ。そうであろうな」
晴明がきらりと道満を見た。
「万に一つのことがあって、私に祟られても困りますゆえ」
「そのような未練がましいことはせぬ」
道満は即答した。
「己のことは、己がよく分かっておるものよ。酒を少しばかり飲んだとて死んだりはせぬ。それに死んだら死んだで、大人しく地獄へゆくのみぞ。…のう、晴明。偶には儂とも一献傾けてはどうじゃ」
その言葉に、晴明は溜め息をついた。
「…そこまで仰るのであれば。しかし、無理はなさいませぬように」
蜜虫、と晴明が呼ぶ。
「道満どのに、同じもののご用意を」
「あい」
どかりと道満は腰を下ろす。言い付けられた蜜虫はすぐに戻ってきた。杯を受け取った道満は、それをぐいと晴明の眼前に突き出した。
「ほれ」
「―――――はい」
少し呆れた様子で、しかし晴明は素直に瓶子を手に取った。博雅はその様子を、はらはらして眺めている。
「おう、ようやく人心地ついたわい」
注がれた酒を一気に呷り、道満はほうと息を吐いた。
「さようでございますか」
再び突きつけられた杯を見遣り、晴明は小さく溜息を付いた。それでも注がれた酒を、道満は美味そうに飲み干す。それを待って、博雅は声を掛けた。
「して、道満どのは、何があってそのようなことに」
「聞きたいかよ、博雅」
「ええと、…」
道満はにたりと笑う。博雅は何となく晴明の様子を窺ったが、こちらは何を言う気も無いようであった。
事のあらましを道満は語った。妖しげな笑みを孕んで語られるその内容は、ひどく毒々しく思われる。
「―――――おぬしも気を付けよ。人の男に何やら怨みを持っているようでな。この辺りをうろついているやもしれぬ」
博雅はごくりと唾を飲んだ。
「博雅、騙されるなよ。このお方はおまえを怖がらせようとしておいでだ」
「何を言う。何があったと問われたから答えたまでよ。儂は嘘などついておらぬぞ」
晴明はつと立ち上がり、一旦部屋を出た。しかしすぐに、何かを手にして戻ってきた。
「何ぞ、それは」
懐紙を広げると、そこには小さな黒いものがぽつりとあった。まるで小豆の連なったもののようにも思われたが、よくよく見ればそれは妙に大きな蟻であった。
「どうしたのだ、これは」
「ここからしばらく行ったところに、落ちておりました」
「それにしても、大きいものじゃな」
「巣の主の蟻でしょう。一つの巣の蟻は皆、一匹の雌から産まれるそうですから」
「そうなのか」
博雅が目を丸くする。
「見つけたときには、死んでおりました」
「ふむ―――――」
「この蟻の巣で冬眠していたのを、某かが掘り起こすか何かしてしまったのでしょう。しかし未だこの寒さです。そのために皆死んでしまった」
「確かに蟻は冬の間、見かけぬと思うておったが、そうか。眠っておるのか」
「ああ。巣の中で他の蟻と共に眠り、春になったら起きてくるのだよ」
「ふうん」
「この蟻は最後の力を振り絞り、我が子らの怨みを晴らさんとしたのでしょう。蟻は毒を持っておりますゆえ―――――」
晴明はちらと、道満の左腕に目を遣った。
「そこに道満どのが、偶然にも居合わせておいでになった」
一寸の虫にも五分の魂があると言う。自ら産んだ子の全てを殺されては、その恨みも相当なものであったのだろう。
「儂にも言わなんだな、そのこと」
「お聞きになりませんでしたので」
涼しい声で言う晴明を、道満はじろりと見た。
「儂は、とばっちりを食うたというわけか―――――」
「女子と見れば片っ端から声をお掛けになっていては、そのようなこともありましょう」
「ふん」
鼻を鳴らす道満の隣で博雅は、手足を縮め、死んでいる蟻を見詰めている。
「寒かったであろうな―――――」
ぽつりと漏れた言葉に、晴明は何も言わなかった。蟻など一度歩けば何十匹も踏んでおろう、そう揶揄しようとした道満も、その横顔を見て口を噤んだ。
己をか弱き存在と知って、それを受け入れている彼等であっても、その子を無碍に失うことは耐え切れるものではなかったのだ。その身を凍らせる寒さに抗おうとするほどに。
博雅はそういったことを、ぽつぽつと語った。
道満は手酌で杯を満たし、一息に干した。その瓶子を手に取り、晴明は博雅の杯に注いでやる。博雅が慌ててそれを手に取り、ちらと晴明を見ると、彼は僅かに口の端を上げた。
雪の溶けぬまま、日は傾いてゆく。
やたら騒々しい気配に既視感を覚え、道満は御簾の隙間からそっと覗いた。予想通りと言うべきか、果たして昨日も見た顔がそこにあった。
博雅はよほど急いで来たらしい。白い息はやや乱れていた。
「どうした。今日は用があるのではなかったか」
庭にあった晴明は、そう声を掛けた。
「ああ。実はすぐに帰らねばならぬ。しかしおまえに渡したいものがあって来たのだ」
「何だ」
「ほら、これだ」
博雅は、小脇に抱えてきた包みを解いた。
「着てみろよ、晴明」
そう言って手渡されたものを広げ、晴明は言葉を失った。
「これは―――――」
「今日、家の者が衣を選んでおってな。それを横から眺めておったのだが、その中にこれがあったのだ。…見てすぐに、おまえに似合うと思うてな」
鼻の頭を赤くして、博雅は笑った。
それはごく淡い緑色をした、美しい袿だった。春の訪れを告げるような、ほんのりとした芽吹きの色であった。広げると、肩と裾には桜の刺繍が施されているのが見えた。
晴明は戸惑ったように博雅を見上げた。
「これを、おれにか」
「おまえにだよ、晴明」
博雅はにこにこして頷いた。白い指の間を、若葉色が滑る。柔らかそうなその生地と細やかな刺繍は、それが決して安いものではないことを物語っていた。
俯いた晴明の表情は、道満からは見えない。しかし単に喜んでいるような気配は感じられなかった。
その様子に、博雅の顔が少しばかり曇った。
「…迷惑だったか」
「そんなことはない。…そんなことはないが、ただ、」
茶色い瞳が、困ったように博雅を見上げた。
「…おれなどに、このようなよいものを…」
「そのようなことを気にするなよ」
博雅はそう言って笑った。
「おれがおまえに、着てほしいと思うたのだよ。これを見てすぐに、きっとおまえに似合うと思うたのだ。だからおまえに贈るのだよ」
しかしその言葉に、道満は首を傾げた。その衣の与える印象は、晴明のものとは大きく異なっているように思われた。あの怜悧な面に、このような柔らかな色が似合うのだろうか。
どちらかと言えば彼は、冬の男だと思う。白く靄のかかった、しかしぴんと張りつめたような夜明けの空気を、道満は思い出していた。
その時、袿を持つ白い手を、博雅の武骨な手が包むのが見えた。
「―――――それにこれがあれば、おまえも少しは暖かいであろう」
その言葉に晴明は目を伏せた。それに頓着することなく、博雅はその手から袿を取る。
「よいから着てみろよ、晴明」
そう言って博雅は袿を広げ、晴明の肩に掛けた。
「ああ、ほら、よく似合うておる―――――」
その姿を見て、嬉しそうに博雅は笑った。晴明は俯いたまま、指先でそっと袿に触れる。
「…暖かいな」
「そうであろう。なあ、このように寒い日にはこれを着るのだぞ。晴明」
昨日あんな風にからかわれて、もう知らぬと膨れっ面をした彼は、その実忘れてなどいなかったのだ。未だに雪は残っている。時間も無いというのに彼は今日、ここまで急ぎやって来たのだろう。
冷たい手をした晴明が、少しでも寒さを感じずに済むように。
「…ありがとう、博雅」
博雅を見上げ、晴明は言った。
離れた所から見ていた道満は、その横顔に小さく息を呑んだ。そこに浮かんでいたのは、見慣れた彼の笑みではなかった。それはひどく柔らかで、春の花のように暖かかった。
博雅は一瞬、目を丸くしたようであった。しかしすぐに嬉しそうに笑い、その袿ごと晴明を抱きしめた。
道満はそこから目が離せなかった。博雅の腕の中、微睡むように目を閉じた晴明の顔はひどく安らいでいた。憂うべきものなどこの世に無いかのように。
そしてそれを抱きしめる博雅もまた、彼が愛しくてたまらぬ様子であった。その抱擁はひどく壊れやすいものを守ろうとするかのように、柔らかく晴明を包んでいた。
ただただ相手を慈しむその表情は、道満の目を引いた。あの男はこのような顔をするのか。愛情のみが込められたその眼差しはひどく清らかで、尊いもののように思われた。
二人の身体が僅かに離れた。晴明の頬に手を当て、博雅が何かを囁いている。何と言ったか定かではないが、晴明が可笑しそうに笑ったのが見えた。
唇が重なる瞬間、道満は思わず目を逸らした。何だか見てはいけないような気がしたのだ。儂らしくも無い、そう心の中で彼は呟いた。
ややあって道満が濡れ縁にやって来たとき、晴明は未だ庭に降りていた。その肩には先程の袿を羽織っている。博雅は先ほど、慌ただしくも名残惜しそうに帰って行った。
濡れ縁に腰を下ろし、道満は晴明を眺めた。特にこちらを気にする様子も無く、彼は庭のあちこちをゆっくりと歩いている。
やがて戻ってくると、晴明は道満の隣に座した。同じように庭を眺める。
「あの男は、おまえを愛し抜いておるのだな」
先程の様子を見ていたと白状せんばかりの言葉であった。しかし晴明は涼しい顔で返事をした。
「そう思われますか」
「はぐらかすなよ、晴明。見れば分かる」
「さようでございますか」
その声は常と変らぬ、飄々としたものであった。何とはなしに、道満は苛立ちを感じている。
「恐れ多きことです」
あのような顔が出来る癖に、彼にはそれを見せるのに、未だ恍けようとするのか。有り触れた只の人の如く、満ち足りたようにあの腕に抱かれていた癖に。
「ならば―――――」
その腕を掴み、一瞬のうちに彼を押し倒した。抗えぬようその身体に圧し掛かり、掴んだ腕を濡れ縁に押し付ける。
「その上で、おまえを抱いてやろうか」
この袿を、彼を穢してやりたいと思った。蕾が閉じたなら抉じ開ければよい。愛しい男に贈られた衣の上で、彼はどのように乱れるのか。美しい想いに包まれ幸せそうに微笑んだその顔は、
そうしてしまえばどんな風に歪むのだろう。そして彼の男はそれを知れば、一体どうするのだろう。綺麗なものだけを食べて生きてきたような男は、どのような醜い表情を―――――
「それが、お望みでございますか」
晴明は、己を押さえつける男を見上げていた。その眼差しの静けさに、道満はらしくもなく言葉に詰まった。
「只の気紛れであれば、犬に咬まれたようなもの。しかしもしそれが、彼を傷付けようと思うてのことならば―――――」
その瞳は青みを増し、きらりと光った。その視線の鋭さには覚えがあった。
「私はそれを許しませぬ」
道満は背筋に、冷たいものが走るのを感じた。彼の本質は変わってはいないことを知った。敵と見なしたものに相対したときの、その容赦の無さは失われていなかった。
今ここで肯けば、内に潜んだ刃は容赦なく道満に襲い掛かるのだろう。それを知って、道満の心に閃いたのは喜びであった。己の知る彼の姿は、確かに存在するのだと。
それと同時に、確かに寂しさをも感じていた。彼が変わったわけでは無い。守り守られることを許すような、そんな存在を見付けたというだけのこと。されどその温かな眼差しは、
道満に向けられることは決して無いのだ。
「ふん」
道満は晴明の上から退いた。晴明もゆっくりと身体を起こした。何事も無かったかのように、冬の日差しが庭を照らしている。雪に跳ね返る白い光に、道満は目を細めた。
「儂はもうゆく。世話になったな」
「もう、お加減はよろしいのでございますか」
道満は左手を上げ、ひらひらと振って見せた。軽いものであった。
「この通りよ」
「それは、ようございました」
静かな声は常と変わらない。背を向け去ろうとしたところで、道満はふと振り返った。
「あと、晴明」
「はい」
濡れ縁に薄緑色が広がっている。柔らかそうな花弁が目に留まった。
「―――――その色、よく似合うておる」
晴明の目が、初めて驚きに見開かれた。それに満足して、道満は今度こそ振り返らず去った。
雪は残っている。しかし空の様子は穏やかであった。
道満にとって、博雅は取るに足らぬ男であった。驚いたときにはおうと声を上げ、悲しい時には隠しもせずに涙を流す。確かに楽の才にかけては目を見張るものがあったが、ただそれだけの男であった。
己からすれば童も同然であった。何故晴明が、あのような男を傍に置くのが分からなかった。晴明の心情を理解できるのは結局のところ自分だけだと思っていたし、その逆も然りであった。
しかし自分は彼の、あのような表情を知らなかった。春のように暖かに笑うことも。
そうして気付いたのだ。真に必要であったのは相手を完全に理解することではなく、相手を思い、その心の傍に在ろうとすることなのだと。
博雅はあの衣を、やはり晴明に似合うと言った。それはつまり、博雅の目には晴明が、いつもあの春の花のように映っているということなのだろう。
一匹の蟻の死を悼むことが、いつの間にか道満にはできなくなっている。当たり前のようにそれをする彼は、奥深くに隠された晴明の一面をもまた見ていたのだ。晴明自身でさえ気付いていなかったであろうことを。
自分がもし彼に衣を贈るとしたら、と思う。決して無いことだ、しかしもしそのようなことがあれば。きっと自分はあの色は選ばないのだろう。全てを見通すような彼の眼差し、そのひやりとした色。そうでなければ、
「血の色か―――――」
時には鬼をも凌ぐ存在にならねばならぬ。自分たちは修羅ではない。ただその道を知っている。必要とあらば、そこに足を踏み入れねばならぬことも。
「ふん」
轍の跡を踏みしめ、道満は歩いた。己を満たすものを求め、彼は生きる。
「酒の一つも、貰うてくればよかったか―――――」
そんなことを呟きつつも、その足取りは確かであった。
解けた雪が地面を濡らしている。時折吹く風は強いものではないが、それでも巻き上げた冷気を孕んでいる。
自らを抱くようにして、晴明は袿の前を合わせた。身の内までもが、ひどく温かく感じられる。
己には、このような暖かな色は似つかわしくないと思う。誰もがその訪れを待ち望む、芽生えの季節。自分がそのような色を身に纏うことには、いつの頃からか抵抗を覚えるようになっていた。
この手は与える手ではない。忌むべきものにも数多く触れてきた。手首を捕らえ捻じ伏せられることはあっても、掌を合わせ握りしめられることなど無かった。
しかし贈った男は、そのようなことを軽々と飛び越えてきた。美しい緑色を、似合うと言って心から嬉しそうに笑った。彼が笑って嘘をつけるような男ではないことを知っている。
陽だまりの中だけを生きてきたようで、その眼は誰よりも曇り無く真実を見通すことも。―――――そして世を捨てているようでありながら、その実誰よりも生に貪欲な蓬髪の男も。
ほうと吐いた白い息はすぐに消えた。己の両手を頬に当ててみる。博雅のような温もりは無いけれど、普段より幾分かは温かく感じる。
彼の言った言葉が本当ならば。自分がこの色を身に纏うことが許されるのであれば。
彼の手を温めることはできずとも、その心を温める存在でありたいと思った。今はまだ遠い、春の代わりに。