そなたの母さえいなければ。

ああ、憎らしや、憎らしや。

何故そのような眼で、わらわを見やる。

わらわの苦しみは、このようなものではおじゃらぬ。

忘れはせぬぞ、あの女狐めが。

さあ、恨むなら、そなたの母上を恨むがよい。

───この畜生、狐の子めが!


「っは、はぁ、…はっ、ゲホッ、」

冷えた空気が、肺に流れ込む。
背中を熱い汗が伝う。
暗い。ここは何処だ。あのひとは、何処に。
思考が定まらない。恨みの篭った目付き。蛇のように締め付ける、白い手。
未だ見詰められているような。今にも闇の中から伸びてくるような。
ふらつく足を踏みしめる。光を求め、駆け寄る。障子の向こう、浮かぶ月。
金木犀の甘い香が流れ込む。それすら重く、のし掛かるような。

「…ゥ、ゲホ、…はぁっ、は、」

薄い小袖を着た、自分の肩を抱く。ただ、すがるものを求めて。

ふいに、背中に手が触れた。

夢中で振り払う。息苦しさを思いだし、再びえづく。
離れなければ。逃れなければ、この手から。

「晴明!」

何処かで聞いた声。これは誰だ。

「晴明、晴明!」

肩を掴まれる。揺すぶられる。逃れることを許さない、強い手。これは、自分に危害を加える手か。
身体から、力を奪う。息が止まる。

「しっかりしろ!晴明、おれだ!」

目が暗闇に慣れてくる。月明かりに照らされ、白眼が光って見える。
肩を掴む手の熱さを感じた。
厚い皮膚。大きな手のひら。
呼吸がおさまってゆく。真剣な顔で覗き込まれる。

「博、雅…」
「落ち着いたか」
「そうか、おまえか、そうか…」

強ばった身体から、力が抜ける。崩れそうになる所を支える。

「大丈夫か、」

彼の頬に手を当てようとして、僅かに首に触れる。瞬間、怯えたように震えた。
束の間の思巡の後、その身体をそっと包み込んだ。砂でできた像を守るように。

「夢を見たのか」
「…ああ」
「嫌な夢か」
「……」

甘い香が漂う。何処か現実離れした、人を引きずり込むような香だった。
顔を伏せて動かない彼に、言いたくないなら無理に言わんでもいい、そう言おうとした矢先。

「…昔の話だ」

「弟子入りをして、直ぐのとき」
「賀茂忠行殿にか」
「ああ。一人の、女が来た」
「女」
「母に、…おれを産んだものに、恨みを持っておったらしくてな」
「……」

妖しの狐を母に持つと噂される、この男。真実はどうなのか、知るものは恐らくいない。博雅も聞かない。
話す気が無いなら、聞く必要も無い。ほんとうは、そんなことなんてどうだっていいのだ。

「…おれを、殺そうとした。いや、その気は無かったのかもしれん。ただ苦しみをぶつけたかったのかもな」
「…しかし、」
「気を失いそうになったとき、屋敷の者が入って取り押さえた。叫びながら、連れて行かれたよ」
「……」
「その女がその後どうなったか、おれは知らん。聞きたくなかった。何も知りたくなくてな」
「……」
「正気を失ったか、死んだか。それとも鬼にでもなったか」
「その女は、」
「おれの父と結ばれてでもいたのかもな。他の恨みがあったとも考えられるが」

そこまで言って、晴明は口を閉じた。
初めて明確な憎しみを向けられた。己の持って生まれた因果を、自分はそこで意識した。
幼くして味わった恐怖。それは異質であることへの嫌悪と相まって、度々晴明を苛んだ。
それでも、最近はその回数は減ってきていた。だから油断していたのだろうか、先程は久しぶりに、呼吸が止まる錯覚さえした。

晴明が、その胸の一番深いところに抱えているもの。
いくら距離が近くなっても、身体を合わせるようになっても、愛しても、愛されても。
それに触れることはできない。変えられない過去が、幾多の苦しみが、それを阻む。
そのことを感じる度、博雅は言い様の無い憤りを、悲しみを感じる。
何処にも吐き出せないその感情。晴明の首を締めた女も、同じ思いを抱いたのか。変えられない運命に、絶望したのか。

「…博雅、」

ぽつんと晴明が呟く。返事を求めているのではないと、直感的に悟る。

「戻ろうか、晴明」

身体を引き寄せ、抱き上げる。

身を寄せて眠ろう。癒えない傷があるなら、その痛みを思い出さずに済むように。
おまえが忘れたら、何度でも思い出させよう。今はもう、一人ではないと。
愛無くして生きてきたなら、その分おれが与えよう。

腕の中、身を擦り寄せる彼を見て思う。
それでも彼が生きてきて、ほんとうによかったと。

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