爽やかな秋の風が吹き抜ける。
歌会の直前、控えの間に座る博雅はぼんやりと外を眺めていた。
秋らしく、空は高い。見上げれば鱗雲が広がっている。
赤とんぼが数匹、ついついと飛んでいった。
何となくそれらを目で追っていた博雅は、同室の男達の会話にふいに引き戻された。

「しかしまあ、あの者となぁ…」
「ぬしよ、わしの言うことが信じられぬというのか」
「いいや、そうではない。そうではないのだがな」
「して、それはいつのことなのだ?」
「いつも何も、今朝方のことよ。呼び出したは昨日の夜よ」
「ほう、昨晩であったか」
「なかなかよい夜であったよ」

口さがないのは、男も女も同じなのであろう。恐らく色事の話だろうが、はばかりも無く大声で話している。
しかし、呼び出したという辺り、相手は普通の女ではないのだろうか。
博雅は聞くつもりは無くとも耳に入ってくる会話を聞きながら、そんなことを考えていた。

「しかしあの者は、それほどによいのですかな。確かに見目は悪くないとは思うが」
「おお、それよ。確かに普段は可愛げもなく、すました様子であるのだがな、」

一旦言葉を切り、彼は声を潜めた。

「だからこそ、その乱れた様子は何とも言えずそそられるものがあるのだよ」
「ほう、それはそれは」
「桜はただ愛でるのもよいが、自ら散らす楽しみもあるのだよ。特にあのように取り澄ました、気の強そうな者はな」
「しかしなあ、ぬしが男を相手にするとは夢にも思わなんだ」
「おう、わしもさ」
「ぬしらも一度、抱いてみればよいではないか。女ではないのだ、多少手荒く扱っても壊れぬよ」

相手は男なのか。
特に珍しいことでもないため殊更に嫌悪感を抱くことは無いが、その内容に博雅は眉をひそめた。
…同じ人に対する扱いのようには思えないではないか。

「手荒くとは、おぬし、なかなかに酷い男よのう」
「いったい何をしてやったのだ」
「ふふん、さすがにこのわしでもそれは言えぬさ」
「なるほど、口に出すのも憚られるようなことなのだな」
「いやいや、拒みもせずに抱かれる辺り、あの者も悪く思うてはおらんのではないか」
「狐の子なだけあって、むつごとも獣のそれを好むのであろうよ」

ははは、と笑い声が響く。
離れた所で博雅は一人座したまま、身を固くしていた。


「…博雅さま?」

問いかける声にはっとする。瓶子を持った晴明が、不思議そうにこちらを見詰めていた。

「あ、ああ、すまぬ。どうしたのだ」
「いえ、お酌を…」
「ああ、そうか」

手に持った杯を差し出すと、彼はそっと酒を満たした。
博雅は伏せられた瞼と、長い睫毛を盗み見た。

あのあと、歌会の場にはいたが、博雅の心は先程聞いた会話に占められていた。
恐らく、と言うよりどう考えても、話に上っていたのは友のことであろう。
彼はほんとうに抱かれたのか。何をされたのだろうか。
嫌がりもせずに、すすんでかの者をその身に受け入れたのだろうか。
人の色事に首を突っ込むのは野暮なことだと分かってはいた。それでも、博雅の胸にあるもやもやとしたわだかまりは消えてはくれなかった。

酒を注ぎ終えた彼は音もなく手を引いた。
ちらりと覗いた手首に、濃い赤色が見えた。

「晴明、」
「あっ」

とっさにその腕を捕らえる。瓶子を床に置き、博雅はその袖を捲った。
手首の内側に、紐が食い込んだような痣があった。
思わず言葉を失った博雅に、晴明は黙っていた。
思い立って、もう片方の腕も取る。予想した通り、同じように痛々しい痕があった。
後ろ手に縛られたのか。心の何処かが冷静に判断した。
顔を上げて、友を見た。思ったよりも距離が近付いていた。
無理に引き寄せたせいで、衣が少し乱れていた。その緩んだ衿元の、首筋に目が止まる。
ぽつり、紅い所有印が浮かんでいた。

「…晴明、」
「あ…」

手を振り払い、彼は横を向いて衣服を正した。
何を言っていいのか分からず、博雅は黙り込む。

「お見苦しいものを、お見せしました…」

しばしの沈黙の後、再び向き直った晴明は頭を下げた。

「い、いや、おれが無理にやったことだ、…すまぬ」

しどろもどろに博雅は言い募る。やはりあの話は本当だったのか。
しかし同時に、ここまで来たなら聞いてしまおうと思った。

「…晴明」
「はい」
「おまえはその、望んでそういうことをしているのか?」
「望んで…とは?」
「何と言うか…おまえはそれを、好んでしているのか。無理強いされたとか、そういうのではないのだな?」
「…ええ」

僅かに目を伏せ、彼は答えた。口元には笑みが浮かんでいた。見慣れた、計算されたような笑みだと思った。
博雅はそれが、ほんとうの笑いではないことを知っていた。何度もこの屋敷に通い、酒を酌み交わした。そうする内に、彼が心から笑うのを目にするようになった。
博雅が何か率直な考えを口にしたとき、あるいは自然や楽の雅を語るとき、極稀に彼は笑った。切れ長の目をきゅっと細めて、楽しそうに笑った。
それがまた見たくて、博雅はまたこの屋敷に足を運んだ。数え切れないほどに。
だから分かるのだ。今の彼の笑みは偽るための笑みだ。それは自分に対してか、彼自身をかもしれないけど。

「…軽蔑、なさいましたか」
「え?」

ぽつんと彼は言った。

「軽蔑なさいましたか。私を」
「け、軽蔑など…」

揃えられた両の手。白い手首についた痕がひどく目立った。

「軽蔑などするものか、ただ…」
「ただ?」
「…自分を、大切にしてほしいだけだ」
「大切に…?」

晴明は顔を上げた。不思議そうにしていた。
何処か子供じみた表情に、博雅はなんだか悲しくなった。

「もし嫌なら断ればいい。望んでいないのなら、無理をすることなどないのだ。相手の身分が上なら、その…おれができるだけ力になってやる、だから…」
「……」
「こんなことをされてはつらいのだろう、晴明」

手を伸ばして、そっと撫でてやった。痣を癒すことなどできないが、それでも。

「博雅さま」
「ん?」
「博雅さまは、私がこのようなことをするのを、止めてほしいと思われますか」
「無理にとは言わんが…おまえがつらい思いをするのなら、止めてほしい。おまえが好きでやっていないのならばな」
「ならば、止めましょう」
「…は?」

ぽかんとして、晴明を見た。彼は微笑んでいた。

「え、いや、そんな簡単に」
「博雅さまがそう仰るならば。私は今日から、お誘いをお断りいたします」
「で、できるのか」
「おそらくは、できましょう」

あまりにもあっさりと放たれた言葉に拍子抜けする。
そんな博雅を見る晴明の唇は、柔らかく弧を描いていた。

「ならば、何故…」
「はい?」
「いや、何でもない」

こんなにもすぐに止められるならば、何故今まで続けていたのだろう。そう思ったが、聞くのは止めた。答えてはくれないだろうと思ったし、自分はまだそこまで立ち入ってはいけないとも。

変わらず庭を眺める彼は、相変わらず微笑んでいた。目元の和らいだ、穏やかな笑みだった。

彼が笑っている。心から笑っている。
取り敢えずはまあ、それでよしとするか。
そう結論付けた博雅は、杯の酒を一気に干した。

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