ひんやりとした空気の中、一条戻り橋において、博雅は夜空を見上げた。
「―――――おるかな、晴明」
その足下では、水面に映った月が揺れていた。
己の持ち込んだ酒を、博雅は手酌で注いだ。一口飲めば、喉元にぽっと熱がともる。それをやり過ごし、博雅はほう、と息を吐いた。
「なんと、強い酒であることよ」
人から贈られたもので、なかなかに珍らかな類の酒だと聞いた。ここまで強い酒というのはあまり無い。気を付けねば前後も無く酔うてしまうなと、博雅は手にした杯をしげしげと眺めた。
「ああ、そうだな」
そんな博雅をちらと見て、晴明は笑った。頷いた割には常と変わらぬ表情で、その杯は既に空いている。
風の無い夜であった。庭の草花はしんと静まり返っている。ほんの僅かに欠けた月が、その様を照らしていた。
その日あったこと、見たものを博雅はぽつぽつと話す。晴明はそれに耳を傾ける。時折相槌を打つ。それは幾度も繰り返してきた夜で、何ら変わったことは無いように思われた。しかし博雅は今宵、そこに僅かな違和感を見出していた。
「晴明」
「うん?」
こちらを振り返った顔は見慣れたそれであった。違和感は拭えないながらも、博雅はその理由を説明することができなかった。
「…何でもない」
「どうしたのだ。おかしなやつだな」
「いや、…ううむ。何かこう、いつもと違う気がしてな」
「おれがか」
「うん」
晴明は僅かに首を傾げ、流し目に博雅を見た。
「何が違うと言うのだ」
「それが何かが分からぬのだよ」
「そうかよ」
それはおかしいな―――――そう言って晴明は杯を干した。ふう、と小さく息を吐く。濡れ縁に置かれた白磁の器が、かつんと音を立てた。
「おい、晴明」
「何だ」
「おまえ、酔うておるのか」
「ああ、そうかもな」
ふふ、と白い面が笑う。その笑みはどこか、投げやりなもののように見えた。
再び杯を満たすそのペースの速さに、博雅は何となく不安を覚える。
「疲れておるのか」
「そう見えるか」
「―――――うん」
「そうか」
「何かあったのか」
その問い掛けに、晴明は答えなかった。答えず、眼前に広がる庭を眺めている。その視線を辿っても、行き着く先に何ら変わったものは無い。
再度声を掛けようとした博雅の肩に、晴明が前触れなくその頭を凭せ掛けた。
「せ、晴明」
博雅は慌てた。彼の方からこのように博雅に触れてくることなど、これまでに無かった。文字通り目と鼻の先に、よく見慣れた、整った顔貌がある。眠りに落ちているかのように、その瞳は閉ざされていた。唇は僅かに笑みを型取っている。
博雅は咄嗟に言葉が出なかった。そこから目を離すことも叶わなかった。この男は知っているのだろうか。―――――いや、知るはずがない。決して気付かれぬよう、心を砕いてきたのだ。
いつの日からか己の心に生まれた慕情を。その身も心も手に入れたいという欲望を。
理性の追いつかないままに、それでもまたその顔を覗き込む。白い瞼は変わらず閉じられている。彼がこのようなことをするなど、やはり疲れているのだろう、再び博雅はそう問おうとした。速まった鼓動を気取られぬよう祈りながら。
「―――――おれは、何なのだろうな」
弧を描いた唇の、そこから洩れた言葉は、裏腹にひどく哀しかった。今まさに口にしかけた言葉は、博雅の舌先で止まった。
「…晴明」
「ごくたまにな」
「うん」
「たまに、自分が何をしているのか分からなくなることがあるのだ」
「何か、あったのか」
「いいや」
何も無いさ、歌うように彼は言った。その衒いの無さが悲しかった。彼にとって自分は未だに、辛いことをも打ち明けるに足らぬ存在なのだろうか。
空になった瓶子がふたつ並んでいる。細い指がその縁をつついた。
小さく傾き、また元のように立つ。それを再びつつく。
晴明はそれを繰り返した。段々とその傾きは大きくなる。博雅はその様子をじっと見ていた。
やがてかたん、と瓶子は倒れた。ああ、倒れてしまった、そう言って晴明は笑った。笑いながら彼は、再びそれを立たせた。
「晴明」
「どうした」
「その、…無理はするなよ」
何を言っていいか分からなかった。だからこんな、間の向けたようなことしか言えなかった。どんな言葉だって、きっと彼を救うことなどできないのだ。
「優しいな、おまえは」
目を細め、晴明はまた杯を手に取る。しかしそれを満たすことはしなかった。
彼はいつだってそう言う。己を指してよい漢だと笑う。しかし本当はどうなのだろう。博雅はこんなとき、ひどく無力感に駆られるのだ。自分はちっぽけな存在だと思う。
きっと誰よりもこの男の傍にいるのに、疲れ果てた彼を癒す術を知らないのだから。
それきり二人は黙り込んだ。自分に身を預けてくる、その肩を抱き寄せたいと博雅は思う。しかし自分にはその資格は無いのだ。踏み込ませることを許さぬ彼に、触れていいものかどうか博雅には判断が付かなかった。
どうしていいか分からず庭を眺めても、そこに救いなど無い。草花はただ風に揺れている。細い指が、杯を弄んでいる。彼の心は今何処にあるのだろう。何を思って博雅に、その一端を垣間見せたのだろう。
強い酒のために僅かに綻んだ、ただそれだけなのだろうか。それを知った博雅は、何をすることもできぬというのに。
「―――――晴明?」
答えは無かった。いつしか彼は眠ってしまっていた。そこに博雅の戸惑いを残したまま。
月下に在って、その頬は常に増して白く見える。それもきっと、ただ月の光のせいではないのだろう。
その手の内にある、空の杯をそっと取る。それでも彼は目を覚まさない。
「運ぶぞ。よいな」
返事が無いのを承知で、その身をそっと抱き上げた。その軽さに驚いて、すぐにぞっとした。
細身の男だとは思っていた。戯れに掴んだ腕の細さに、肩の薄さに驚いたことがある。この細い身体で、都に巣食う闇に分け入り、鬼に対峙しているのか。
几帳の向こう側、床に運んでその身をそっと下ろしてやる。聞こえるのはその唇から洩れる、しめやかな寝息のみであった。御簾の隙間から月光が漏れている。急にこの状況が、淫靡なものに思われた。しどけなく眠るその顔の、頬に、唇に触れたいと思う。
手を伸ばせば届くのだ。目が覚めても抵抗されても、それを押さえ込むことなど造作も無いだろう。身体を手に入れてしまえば、その心も少しは近くなりはしないだろうか。
「う…」
小さく漏れた声に、博雅は我に返った。魘されているのか、その眉は寄せられている。
「晴明」
投げ出されたその手を思わず握る。時折痙攣するように震えるその指を、しっかりと包み込んだ。
「晴明。おれがついているぞ」
どんな夢を見ているのだろう。何が彼を苦しめているのだろう。鬼か人か、死ぬことか、はたまた生きることなのか。
「おまえはおれの、―――――大事な友だよ。何よりも大事な、おれの友だ」
だから苦しまないでくれ、おまえは一人きりではないのだ。その思いを込めて手を握る。
ふうと小さく息が吐かれた。愁眉が微かに解かれた、気がする。
息を詰めて、博雅はその様子を見詰める。眠れ、眠れと心の内に唱える。夢に魘されることの無いように。せめて今だけは、彼の安らぎを妨げるものの無いように。
その願いが届いたか、束の間のものであるかもしれないが、晴明の寝息は徐々に穏やかになっていった。それでも博雅は、握りしめたその手を離すことはできなかった。
彼を守りたいと思う。苦しみの根源を取り除くことはできずとも、せめて傍で彼を支えたいと思う。下心が彼を傷つけ得るなら、それは心の奥底にしまっておこう。
それでもいつか。いつか互いの胸に何を隠すこともなく、笑い合える日は来るのだろうか。
夜更けの静寂の中で、博雅は一人その時を思った。