葉桜が、涼しげな木陰を作る季節となった。
空は青く澄み、白い雲はゆっくりと流れる。
その様を、博雅はぼんやりと眺めていた。
隣で長々と身体を伸ばしている晴明は、目を閉じ眠っているようにも見えたが、その口元には僅かに笑みが浮かんでいるようだった。

「お」

草木の繁ったその緑を切り抜くかのように、一匹の蝶が姿を現した。
大きな羽を広げ、ひらひらとあちらこちらを飛び回っている。

「ん?」
「揚羽蝶だ…」

目を開いた晴明に、博雅は教えてやった。

「…しかし、晴明よ」
「うん?」
「以前、露子姫が言うておられたことも、分かる気がするなあ」
「ほう」
「こじんまりとした、葉っぱなぞを食べておった青虫が、今はあのように羽を広げて悠々と飛んでおるのだ」
「うむ」
「あの美しい羽は、青虫の身体のどこかに仕舞われておったのだろうか。それとも、さなぎの間に新しく作られたものだろうか」
「どうであろうな」
「そういうことを考えると、虫とは言えども、奥深いものだと思うのだよ」
「ふうん」

そこここに咲く花の間を行き来し、蝶は蜜を吸う。

そうしたやり取りの間も、蝶はゆったりと庭を飛び回っていた。一層興味深げにそれを見詰める博雅に、晴明は口の端を吊り上げた。

「おお」

晴明がついと人差し指を立てると、吸い寄せられるようにして蝶が止まった。ゆっくりと羽を閉じ、また開く。

「なあ晴明、」
「うん?」
「前から思っていたのだがな。おまえ、虫やら獣やらと話ができるのか」
「話か」
「うむ。おまえはよく、ねずみやら鳥やらに言伝てを頼んだりするではないか」
「ふむ」
「あれは、話をしているのか。それとも式か何かか」
「どちらにしても、それほど差は無いだろうよ」
「何───」
「いずれにせよ、重要なのは呪だ」
「呪!?」
「ああ」

博雅はぎょっとして、晴明を見た。いつものように、笑みを浮かべている。

「その者に呪をかけ、心を通じ合わせる。それは相手が人であっても変わらぬことさ。ごく簡単であろう」
「よい。分かった」
「ほう、分かったか」
「聞いてもたぶん、おれが分からないだろうということは分かった」
「ならば、試してみるか」
「何をだ」
「指を立ててみろ」
「何故だ」
「試すと言ったろう」

追求を諦め、博雅は大人しく指を立てた。
晴明が、揚羽蝶の羽にふうっと息を吹き掛ける。と、ひ

らりと舞い上がり、蝶は博雅の指先に止まった。

「おお」
「簡単であろう」
「…そういうことにしておこうか」

羽を休めている蝶を、博雅はじっくりと観察する。胴は細かい毛に覆われており、その目は顔のわりにひどく大きかった。
蜜を吸う口は管のようで、今は小さく丸められていた。

「ふうん…」

博雅が感心していると、やがて蝶は再び舞い上がった。濡れ縁を離れて庭に戻る。その腹を満たすための蜜を求めるのだ。

起き直った晴明が、肩に頭を預けてきた。自然、その肩を抱き寄せる。
その唇が、庭にあるどの花より赤かった。

「なあ晴明」
「ん?」
「おれは、分かったぞ」
「何がだ」
「あの蝶も、おまえを花のように思うて引き寄せられたのではないか」
「…は?」

いつの間にか、揚羽蝶は姿を消していた。

「だから、蝶は花の蜜を好むのだろう。花のようにうつくしいおまえなら、無理もないのではないか。この頬も、唇も」
「馬鹿なことを…」
「馬鹿なものか、おれはほんとうにそう思うておるのだぞ」

普段は実直で色恋沙汰には鈍い彼であるのに、たまにこうやって不意打ちを食らわせてくる。だから一層、質が悪いのだ。

「おれは、」
「ん」

庭を見詰めたまま言う。

「誰にでも蜜を吸わせてやったりはせぬぞ」
「分かっておるさ」

博雅は彼の頤に手をやり、こちらを向かせた。

「おまえは、おれだけの花よ。他の誰にも味わわせたりはせぬ」
「ふふん」


その甘さを知るは、一匹の許された蝶だけ。

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