ひんやりとした空気を肌に感じ、夢うつつのまま身じろいだ博雅は、隣にあったはずの温もりが無くなっていることに気付いた。手を伸ばしてみても求めた体温に触れることはなく、冷たい布地の手触りが博雅の覚醒を促す。

昨晩確かに晴明は、己の腕の中で目を閉じていた。邸を訪れたときから少し疲れた様子だったから、肌を合わせこそしなかったものの、頬に触れた手に擽ったそうに笑ったのを博雅ははっきりと覚えている。

博雅は身体を起こし立ち上がった。静かな夜であった。庭の桜は盛りを迎えている。先程二人で杯を交わした際も、ぽつぽつと言葉を交わしはしたものの、ほとんど全ての時を、ただ黙って桜を眺めて過ごした。

博雅は再び濡れ縁に立った。しかしそこに晴明の姿は無かった。望月の夜ではないが、それでも月明かりはしらしらと庭を照らしていた。その中に桜は白く浮かんで見えた。

みっしりと花弁に覆われた枝を、重たそうに広げている。それらを散らす風も吹かぬ今、この空間はまるで時が止まっているかのようであった。

何か人の手の届かぬ、大いなる存在のようで、博雅は思わず我を忘れそこに立ち尽くした。先程晴明と二人で眺めたときよりも更に、宵は深くなっている。息をすることさえ憚られるような静謐が辺りを満たしていた。

漠として樹を見上げていた博雅だったが、裸足に触れる床板の冷たさにようやく我に返った。己がこの場にやって来た、本来の目的を忘れていた。

「晴明、どこにいるのだ」

そう口の中で呟き、博雅は濡れ縁を歩いた。

御簾の隙間から、光が筋になって漏れるのを博雅は見た。細く連なった竹を指先でそっと押し遣ると、その向こうには求めていた姿があった。

晴明は文机に向かい座していた。俯き加減に書物に目を落としている。揺れる灯りに横顔がほの赤く照らされていた。その様を博雅は声も無く見詰めた。

時折書物を繰る、その紙の擦れる音がひどく大きく思える。それは確かに己の恋人で、しかし常の飄々とした様の彼ではなかった。博雅を煙に巻き、からかって笑う彼の姿はそこに無かった。

平気な顔をして妖退治に博雅を連れまわし、時には囮にさえ使ったりするのに、未だ彼の生業の全貌など見えてこないのだ。これだって彼の本質の一部なのだろう。

陰と陽の狭間を何でも無いように歩む彼の、その足下の危うさを博雅は知っている。物事を在るべき姿に戻すため、その身を削り生きていることも。

こんな夜中に床を抜け出してまで、今彼は何を求めているのだろう。自分と酒など飲んでいなければ、こんなことをさせずに済んだのではないかと思ってしまう。

立ち竦む博雅だったが、足元から伝わる冷気に思わず身を竦めた。春の夜は冷える。見れば晴明も、床から抜け出したそのままの、薄手の衣を身に纏った姿であった。

いつからここでこうしているのだろう、寒くはないのだろうか。そう考えたちょうどその時、晴明が微かに身震いするのが見えた。

「あ…」

思わず漏れた声に、晴明が顔を上げた。ばつが悪そうに佇む博雅を見ても、驚いた顔もせず微笑んだ。

「博雅か。どうした」

「どうということでもないのだが、…その、おまえがおらんかったからな。どうしたのかと思うてな」

「そうか。すまぬ、来てくれたのか」

「そちらに行ってもよいか、晴明」

「もちろん」

何となく足音を忍ばせ、博雅は晴明の背後に進んだ。細い身体を抱きしめてみれば、思った通り、ひんやりとした感触が伝わってくる。

「…おまえ、忙しいのか」

「ああ、これか」

手元を見下ろして、晴明は笑った。

「大したことではないさ。ただ、少し気になることがあってな。考え始めたら寝られなくなって、起きてきてしまった」

開かれた書物を眺めてみても、博雅にはその内容がさっぱり分からない。傍らに置かれた幾つかの巻物も皆大層古びていて、博雅には手を触れることも憚られた。

「…すまぬ」

「何がだ」

「おれに付き合わせてしまったから、おまえをこうやって夜まで働かせてしまった」

「そんなことはない」

晴明は身体を捻って、背後の博雅を見上げた。

「思いつくことがあったから、少しばかり調べていただけのことだ」

「そうか」

「おまえが気を病むようなことなどない」

「…うん」

それでも未だ浮かぬ顔の博雅に、腕の中の晴明は身体ごと向き直った。

「おまえ、おれの言うことが信じられぬのか」

「そういうわけではないが…」

「なら、そのような顔をするものではない」

白い指先が、博雅の目尻に触れた。

「男ぶりが台無しだぞ」

「からかうなよ、晴明」

「からかってなどおらぬ」

「笑っておるではないか」

「元からこのような顔だ」

「それがからかっているというのだ」

「そうか」

「そうだよ」

もはや馴染みのものとなった遣り取りに、博雅は口をへの字に曲げた。それを余所に晴明はくつくつと笑っている。

「…なあ、晴明」

「なんだ、博雅」

「おれのすることで、もし迷惑なことがあれば、すぐにおれに言えよ」

「そんなことはないさ」

「おまえはそう言うてくれるが、おれに構ってなどおれぬときだってあるだろう」

「そうかな」

「分かっておるだろうが、おれは鈍いのだ。だからそのようなときは、言うてくれぬと分からぬのでな」

「ふうん」

「だからおまえが忙しいときにはそう言うてくれれば、おれはおまえの邪魔をせぬ」

「そうか」

「あとは、おまえがおれに助けてほしいときもだよ」

こちらを見詰める淡い色の瞳を、博雅はまっすぐに見返した。

「おまえはいつも、ひとりで何でもやってのけてしまうがな。何かあれば、…いや、何も無くとも気にせずおれを頼るのだぞ」

「覚えておく」

「こら、晴明。覚えるだけではいかんのだ。おれは本気で言うておるのだぞ」

童に噛んで含めるような口調であった、しかしその眼差しの真摯であるのに、晴明は思わずどきりとした。黒い瞳には、小さな茜色の灯りが一つずつ映り込んでいる。

静かな夜であった。博雅の声だけが穏やかに空気を揺らした。まるで世界には自分たち二人だけしか存在しないかのように。

なんだか気恥ずかしくて、晴明は思わず目を逸らした。己らしくもない、心中でそう自嘲する。身を低くし視線を受け流すことはあれど、気圧されることなどここ幾年も無かった。

けれどこれまでに、このように自分を見詰めてくる者などいなかったのだ。身の内から崩されるような柔らかな眼差しは、未だ慣れぬものであった。

「…晴明?」

「もう、今日はこれまでにしておこう」

身体を捻り、言葉を遮るようにして書物を閉じた。その手付きが些か乱暴なものになってしまったが、博雅はそうか、そうだな、などと気にも留めずに頷いている。彼はいつもこれくらい単純な方がよいのだ。

自分が自分でなくなるような、こんな戸惑いを気取られることなどあってはならないのだから。

「そういえばな、晴明」

「なんだ」

「さっき庭を見たら、月がたいそう高く昇っておってな。桜が照らされて、これまた見事なものであったぞ」

「そうか」

「見にゆくか」

晴明はしばし思案したが、やがて首を横に振った。

「いや、よい」

「よいのか」

「ああ」

「もう寝よう、博雅」

どことなく甘えるようなその口調に、博雅は思わず赤面した。

「あ、ああ。そうだな、おまえも疲れておるよな」

「すまぬ」

「謝ることなどないだろう」

灯りを消せば、辺りは闇に包まれた。触れる体温だけが互いの存在を知らしめている。目が慣れるまでのしばしの間、二人はただ寄り添っていた。

 

床に就いて間もなく眠ってしまった晴明を、博雅はぼんやりと見詰めた。御簾の隙間から洩れた月光が、その肌を白く浮かび上がらせている。

幼い頃、乳母に聞かされた寝物語を思い出す。竹の中から生まれた美しい女が、実は天上の住人であった話。あなたがたを想えば空から落ちてしまいそうな心もちがいたします、

そう涙の中に言い残しながらも、仕舞いには人の心を失い、月へ帰ってしまった姫のことを。

今は己の腕の中で眠る彼も、いつの日か同じように、博雅のついぞ届かぬ所へと去ってしまうのではないか。いつだって全てから一線を引いたように俗世を俯瞰する彼を、博雅をただ優しい目で見る彼を、時折どこか別の世界の住人なのではないかと思ってしまう。

博雅の与り知らぬ、どこか遠い世から遣わされた存在なのではないかと。

何の気なしに発する言の葉から、一抹の寂しさが去来する瞬間が、博雅には確かにあるのだ。

起こさぬように注意しながら、彼の身体をそっと引き寄せた。触れる温かさに少しだけ安堵する。

天になど帰してなるものかと思う。誰にも渡したくなどないと思う。これほどまでに一人の人間に強い思いを抱いたことなど、今までには無かった。あなた様は私でなくともよろしゅうございましょう、

そんな女の恨み言に、そんなことは無いのにな、と首を傾げたことは幾度もあった。しかしきっとそれは当たっていたのだ。

何と引き換えにしても失いたくないと思う、こんな感情を彼女らには到底抱いていなかったのだから。長い睫毛の一本さえも愛おしいと思える、そんな相手が見付かるなどと思ってもみなかったのだ。

小さく身じろいだ恋人に、博雅は我に返る。わずかに身体を丸めるようにした彼を見て、慌てて掛布を引き寄せてやる。隙間の無いようにしっかりとその身を覆ってやると、晴明は安心したようにふっと息をついた。

「おやすみ、晴明」

博雅はそっと囁く。庭に咲く桜を思い出す。今も月下に、神々しいほどに咲いているのだろう。その様が晴明に似ているといつも思うのだ。孤高に咲く在り方も、どれほど散ろうとも尽きぬ花弁のように、その才に限りがないことも。

それでも、常に盛りでなくてもよいのだと思う。風に青葉を揺らすときも、枝のみとなり乾いた木肌のみをただ晒すときもあるのだから。それが生きるということなのだ。

彼に何があろうと、自分はその傍らに寄り添っていたいと思う。

  静かな春の夜であった。博雅もまた息をついて目を閉じた。明日も明後日も、その先もずっと、この手を離さぬことを誓いながら。

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