チキチキチキチキ、ツクツクツィーッ。
その声の聞こえた後、黒に近い紺色の鳥がすうっと空を切り裂いた。
濡れ縁に腰掛けた博雅は、それを見てほうと息をついた。
ともすれば手の内に収まってしまいそうなその鳥は、春になると遠い異国の地から海を越え、遥々日本へ渡ってくるという。
最初に聞いたときはどうも信じられなかったが、何の抵抗もなく滑空するその姿からは、成る程雀や鳩には無い力強さが感じられた。
また遠くであの鳴き声が聞こえる。
「今年も、もうそんな時期なのだな」
傍らに寝そべる男は、目を閉じたまま微笑んだ。
「燕が来たのが、それほど嬉しいかよ」
「嬉しいとも。今年もまた会えたと、そう思えるではないか」
「去年会った燕とは別の燕かもしれぬぞ」
「よいのだ。どの燕も遠い地からわざわざ此処までやって来たのだぞ。それに、おれには彼らが春を運んできたようにも思われるのだ」
「ふうん」
晴明は、杯を口元に運んだ。
「おまえは、春が好きだな」
「ああ。…いや、違うな」
「違うのか」
「うむ。春だけではないぞ。どの季節にも、それぞれ良さがある。夏には夏の、秋には秋の。もちろん、冬にもだ」
「ふむ」
「どの季節が欠けても、おれは嫌だ。それに季節が移り変わるから、その良さも一層引き立つように思うのだよ」
「そうだな」
「それに、」
「うん?」
「おまえがいるからな」
「おれが?」
腕を枕にしたまま、晴明は博雅を上目遣いに見た。
「ああ。おまえに出会って、ここに来るようになって初めて、おれは今言ったようなことに気付いたのだ。おまえが隣にいて、この庭を眺めていて、ああ、もう桜が咲いたとか、月が美しいとか、そう思う。そのときが一番、おれはくつろげるのだよ」
「ふふん」
晴明は手を伸ばし、博雅の杯に酒を注いでやった。
「ほう、そこに蒲公英も咲いている」
酌を受けながら、博雅は声を上げる。
「あの綿毛は、何処まで飛んでゆくのであろうなあ」
「どうであろうな。…しかし博雅、気を付けた方がよいぞ」
「何にだ」
晴明が、ゆっくりと身体を起こした。
「綿毛にだ」
「何!?」
「昔、おれが賀茂忠行さまの所におった頃」
「うむ」
「一人の男がな、頭が痛いと言うて助けを求めてきたのさ」
「頭がか」
「薬師に見せても治らず、日増しに痛みは募るばかり。これはただ事ではないとな」
「そうであろうな」
「しかし、何も悪しき気配も感じられず、何故これほど痛むのか分からない。しかしな」
「うむ」
「頭の中にな、微かに命が息づいているのが感じられたのさ」
「何───」
晴明は、折った膝の上に頬杖をついている。相変わらず不思議な笑みを浮かべていた。
「その気を探ると、どうやら植物であるらしい。しかし悪しきものではないとは言え、放っておくわけにもいかぬ」
「う、うむ」
「だからな、こう───」
晴明の手が、何かを摘むような動きをした。
「耳から箸を突っ込んで、それを引っ張り出したのさ」
「は、箸をか」
「うむ」
「それは…痛くはないのか」
「痛いだろうよ。随分と暴れておったからな」
「それで、」
「出てきたものを見るとな、それは蒲公英だったのだよ」
「────」
凍りついた博雅を見遣り、晴明は言葉を続けた。
「恐らく耳から綿毛が入ったのであろうな。その種が頭の中で、芽を出したのさ」
「なんと────」
「そういうこともあるからな、博雅よ。十分に気を付けた方がよいぞ」
博雅は、恐々とその黄色い花を見た。
「な、ならば、」
「うん?」
「もしあの綿毛を吸って、飲み込んでしまったなら」
「ふむ」
「腹の中で蒲公英が咲くかもしれぬのか」
「────」
「頭の中で生えたのなら、腹の中で生えてもおかしくはないのではないか」
「腹の中でか」
「ああ。そうなったら晴明、おまえに頼むぞ」
「おれか?」
「おまえしか頼れる者などいないだろう」
「ふむ…」
「しかし、あんな小さな草でも、恐ろしいことがあるものだな。ぞっとしたよ」
なんとなく不安そうな面持ちのまま、博雅は杯に口を付けた。そうしてふと晴明の杯を見る。
「もう空だな、注いでやろう」
瓶子を手に取るが、晴明は何も言わない。
「晴明?」
「……」
その肩が小刻みに震えている。
「晴明、」
「すまん、博雅────」
晴明は吹き出し、声を立てて笑い始めた。
「え、何だ、晴明」
「あははは、いや、すまん。…ふ、」
博雅に何か伝えようとするのだが、その度に笑いが込み上げるのか、言葉になっていない。
「…晴明」
「そう来たかよ、博雅。腹の中で、蒲公英が、咲くか」
ついに腹を抱えて笑い始めた晴明に、自然と博雅の口も尖ってくる。
「…そんなにおかしいかよ」
「ああ、いや、そうでなくて、」
息も絶え絶えになりながら晴明は言う。
「すまん、あれは、嘘だ」
「は?」
「頭の中に蒲公英が生えたというのはな。嘘だ」
「え、じゃあ」
「少なくともおれは、そんな話は聞いたことがない」
「────」
「そもそも草木は、日の当たらぬ所では育たぬよ」
「おまえ…」
「すまぬ。おまえが信じるとは思わなかった」
「────」
「それにしても、腹の中で咲くと申すか。まったく、そう来るとはな」
思い出したように笑い出した晴明から、博雅はぷいと顔を背ける。
「拗ねるなよ、博雅」
「拗ねてなどおらん」
自分ひとりで酌をして飲み始めた博雅に、晴明はにじり寄った。
「ほう、拗ねてなどおらんか」
「そうだ」
「なら、この頬はどうした」
「何がだ」
「ふくれておるではないか」
「うるさい」
ますますふてくされる博雅の頬に、晴明はふいに掠めるような口付けをした。
「え、」
「ほう、治ったな」
「────」
「頼れる者は、おれだけなのだろう?」
「あ、ああ」
「なら、おれが治してやるしかないであろうよ」
おや、今度は赤くなったぞ。そう言われ頬をつつかれ、博雅はたじたじとなるしかなかった。
白い綿毛がふわりと、春の風に舞った。