桜が散る。
ひらり、溶ける。

「おるかな、晴明」

いつものように、博雅は一条戻り橋を渡る。
殿上人らしくもなく、供も連れずにのんびりと歩む。
空を見上げる。乳を溶かしたような、やわらかな青空が広がる。
気持ちのいい日だ、と思った。
早く彼に会いたい。そうも思った。

いつ来ても開かれている門を通る。
玄関先から声を掛けてみたが、しんとしていた。開いていたのだから、いないということは無いのだろうが。
迷わず庭へと回り込んだ。式や野ねずみが出迎えにやって来ることは今までに何度もあったが、今回はその様子も無い。
最早馴染みのものとなったその庭を目にした瞬間、博雅は息を呑んだ。
古びた大きな桜の木が、花びらに覆われてみっしりと枝垂れていた。
実際、その花弁は大した重さを持たない。しかしその限り無く在ると錯覚させるような数のせいか、まるでぐんと伸びた枝がどうにか重みに耐えているように思われた。

見ている間にも、桜は散る。
はらりと舞い、地を隠す。敷石の上に。濡れ縁の上に。

白い狩衣の上に。

「…っ晴明!」

花びらは全てに等しく散る。
色の抜けたような肌にも、そこだけ鮮やかに色付いた唇にも。
思わず駆け寄り、抱き起こした。それでも瞼は下ろされている。

「晴明、晴明!」

肩を強く揺すぶった。目を覚ませ、頼むから。

「…なんだ、騒々しい」

一瞬眉根が寄り、ようやく黒い瞳が博雅の顔を映した。
ほう、と息を吐いた博雅に、彼は目を丸くした。

「どうかしたか」
「どうもこうもあるか、おまえ…」

全身に散った花弁をそっと払ってやりながら博雅はぼやいた。自分の状態に初めて気付いたのか、晴明は大人しくされるがままになっている。

「博雅?」
「…おまえでも昼寝などするのだな」
「おれとてそれぐらいするさ」
「……」
「どうした、博雅」
「おまえが、このまま桜に埋もれて…消えてしまいそうだと思うたのだよ」
「ふうん」

晴明は頓着する様子も無く、博雅の肩から花びらを摘まみとった。

「おまえにも付いておるぞ」
「…はぁ」

どうにも自分の気持ちがうまく伝わっていないように思えて、博雅は口をへの字に曲げた。何処か楽しげに手の内の花弁を弄ぶ晴明をすっぽりと抱え込む。

いつでも心の隅にあるこの思いが伝わることなど、きっと無いのだろう。

奔放で気儘であり、常人には理解し難いようなその性格は彼の魅力の一つであったが、同時に何処か危うさを孕んでいた。
あまりにも自分を省みないその態度に、博雅はしばしば肝を冷やす羽目になる。彼は何時か、自分の前から消えてしまうのではないか。予期せぬ別れがあるのではないか。
音もなく散る。桜と共に。彼ならそんなこともありそうだった。怖かった。

「…博雅」

晴明は真っ直ぐに此方を見ていた。その瞳には自分の顔が映っていた。情けない顔だ。

「おれは、何処へも行かぬぞ」

その言葉に目を見開く。心を読んだとでもいうのだろうか。
ふふんと笑い、それぐらい分かる、そう彼は言った。

「…おまえ」
「また妙なことを考えてでもいたのだろうが」

おまえはよい漢だからな、いつもの調子で告げられる。

「ほんとうか」
「ん?」
「ほんとうに何処にも行かぬのだな」
「当然だ」

白い手に頬を撫でられた。

「こんなに可愛いおまえを置いて、何処へも行ける筈が無かろう」

諌めるように口付けられる。

「…おまえな、」
「なんだ?」

言いたいことは沢山あった、だがそれらは全部後回しにした。今度は此方から、彼と唇を合わせよう。

桜は音もなく散ってゆく。
全てに等しく降り注ぐ。
だがそれを恐れる必要など、微塵も無いのだ。
今年も春がやって来た。

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