星に手が届いた日

 

 降り続いた雨に洗われ、空気は澄み渡っていた。茜差す西の空は、地平線から群青色に染まり、ひとつふたつと、星が瞬き始めていた。

「しかしまあ、たいへんな長雨であったな。鴨川が溢れなかったのが、不幸中の幸いか」

「そうだな。流行り病もようやく落ち着いたころであるというのに、またあのようなことになってはかなわぬ」

「ここに来るときにも、家財道具を積んだ車が戻ってくるのを見たよ」

「そうか。あの辺り一帯も、火の消えたように静まり返っていたものな」

「ああ。まるで死んでしまったようで、恐ろしい心地のしたものだよ」

 晴明は博雅の盃に、酒を満たしてやった。博雅はそれに唇をつけ、ほうと息を吐いた。

「ときにおまえ、この屋敷は大丈夫だったのか」

「うん?特に心配するようなことは無いぞ」

「ならよいが。うちの蔵が、浸水するのではないかと騒ぎになってな。まごまごしていたら、あっという間に水が迫ってきたのだよ。皆で慌てて濡れてはいけないものを上に移してな」

「ふうん」

「結局のところ浸水はしなかったがな。だが、おれのところは人が多いが、ここは違うだろう。もちろん、いないわけではないが」

 蜜虫がしずしずと、灯りを持ち現れたのを見て、博雅は付け加えた。燈台を下ろし一礼した後、来た時と同様音も無く帰っていくのを眺める。

「確かにおまえには式がおるが、それだけでは困ることもあろう。もし人手が必要であれば、おれを遠慮なく頼れよ」

「そうか」

「ああ。おまえ、度々ねずみなんかを遣いに寄越すだろう。あれでもよいぞ。すぐに人を連れて向かうからな」

「…優しい漢だな、おまえは」

「な、何を言う。普通のことではないか」

 照れたように目をそらす博雅に、晴明はふふ、と笑った。

「せ、晴明。あの花は何なのだ」

「どの花だ、博雅」

「ほら、あの花だ。ふっくらとして、下を向いている、薄紫色の花だ」

「ああ、あれか。あれは、蛍袋だ」

「蛍袋?」

 耳慣れぬ名前に、博雅はまじまじとその花を眺めた。釣鐘のような花が、いくつも垂れ下がって揺れている。

「蛍を入れる袋か」

「ああ、そう言われている、童が蛍を入れて遊ぶために、その名が付いたそうだ」

「へえ、面白いな。あれに蛍が入れば、さぞかし美しいのであろうな」

「うむ。そうであろうな」

「蛍と言えば、晴明よ。黒川主のお住まいの近くに、たいそうたくさんの蛍が見られるところがあるそうだよ」

「ほう、それは知らなかった」

「そうであろう。もうじきに蛍の見られる頃ではないか。こんど一緒に見に行かぬか、晴明」

「それはよいが、博雅」

「なんだ」

「おまえ、そのようなものを共に見にゆく姫君の、ひとりやふたりおらんのか」

「な、なんだと、晴明――――」

 晴明はくつくつと笑っている。

「そういうおまえは、どうなのだ。おまえこそ、す、好いた相手はおらんのか」

「ああ、おらんよ、博雅」

「な、なんだ、おまえとておらんのではないか」

「別にいかんとは言っておらんぞ。ただ、おまえはおれとばかり酒を飲むか、一晩中笛を吹きとおしてばかりおるからな。おまえの家のものも、さぞかしやきもきしているであろうと思うてな」

「ばか。おれはそうしたいからしておるのだ。――――月も蛍も、おまえとこうやってぼんやりと眺めているのが、いちばんその美しさに浸ることができるのだ。

やたら逢坂の関だとか、忍ぶれど、とかいうような、判じ物のような歌を詠んでいては、気もそぞろになってしまうのだよ。

しかし他のものと見るのでは、そのようなことをしないわけにもゆかぬからな」

「ああ。おまえがそのようなことが不得手なのは、皆知っておろうさ」

「…おまえ、もしかしてあの歌合せのことを言っているのか」

「うん?何のことかまったくわからんぞ、博雅」

「…もういい」

頬を膨らませる博雅を余所に、晴明は夜空を見上げ、盃を唇へと運んだ。空は今は漆黒に染まり、空一面に星が散らばっていた。

「ただまあ、おまえのその気持ちも、分からんでもないがな」

 少しばかり憮然とした表情のまま、博雅は晴明を見た。

「このような空、余計に頭を使いながら見るには、勿体ない――――」

 そのとき、油が切れたのか、灯りがふっと消えた。橙色の光に慣れていた目の前が、一瞬真っ暗になった。

しかし、数度の瞬きの後、博雅の見上げた空には、先程より多くの星が、ちかちかと瞬いていた。

「うわあ…!晴明、すごいな…!」

「ああ…」

 呆けたように、博雅は空を眺めた。まるで星々に囲まれているようであり、そのひたひたとした静謐さに、かえって圧倒されるようであった。天の川が、水に乳を流したかのように、空を白く横切っていた。

 空が迫ってくるような、押しつぶされそうな感覚に囚われて、博雅は思わず、隣の晴明を見た。白い狩衣は、星の光を受け、蒼くぼんやりと浮かんで見えた。

その横顔に目を遣った博雅は、その瞳に星の光の映り込むのを見出した。

「あ…」

 その光を見詰めるうち、無意識に、博雅は手を伸ばしていた。何かとてつもなく尊い、得難いものを見付けたときのように、博雅はそれを手に入れようとしていた。

 頬に指が触れたときに、晴明は振り向いた。指先が頬を滑り、唇を撫ぜた。晴明が驚いたように瞬きをすると、そこに宿った星も瞬いた。

「どうした、博雅」

「す、すまぬ、晴明。何でもない」

「星に当てられたかよ、博雅」

「いや、すまぬ。――――その、おまえの目にな」

「うん」

「お前の目に、星が映っておってな。ひどく綺麗だったのだよ」

「…おまえな。そういうことは、姫君を相手に言うものだ」

「わ、分かっておるさ。しかし――――」

「しかし?」

「…あまりにも、綺麗だったのだよ」

 おまえが、という一言は飲み込んだ。綺麗なのは、星だけではない。星を宿す目を持った、おまえが一番美しいのだ。

 更にからかわれるかと思ったが、以外にも、晴明は黙っていた。ただ二人で、再び空を見上げていた。

「おまえはほんとうに、よい漢だよ…」

 しばしの後、晴明はそれだけを、ぽつんと言った。

 

 

 

 

 

 屋敷の濡れ縁にあって、二人が見上げるのは、満天の星空であった。いつかと同じように、二人の間には燈台が光を放っていた。

「まるで、空がこちらに迫ってくるような心持ちがするよ」

 ほろほろと酒を飲みながら、博雅は言った。晴明はその唇に、微かな笑みを浮かべ、その言葉を聞いている。

「灯りを消してもよいか、晴明」

「ああ」

 博雅は燈台を手に取り、ふっ、と火を吹き消した。暗闇が満ちるように感じたが、すぐに目が慣れ、世界が蒼白い光に照らされた。

「ああ…やはり、このほうが綺麗だ」

 博雅は思い出していた。数月前、同じように星の美しかった夜と、内に秘めた苦い思いを。隣に座す晴明の瞳に、再び星の光が宿っていた。

 博雅は再び、手を伸ばしていた。振り向いた晴明の頬を、唇を指先が撫ぜた。

「なあ、晴明…」

「どうした、博雅」

 晴明が微笑んだ。その頬を、博雅の手がすっぽりと包んだ。

「前に、こうしておまえに触れたことを、覚えているか」

「覚えているとも」

「ほんとうはあのときから、おれはこうしたかったのだよ」

「ふふ」

 くすぐったそうに、晴明は笑った。とても壊れやすいもののように、博雅はそっと口付けた。答えるように伏せられた、長い睫が愛おしかった。

 幼いころ、ぽかんと口を開けて夜空を見上げていたことを思い出した。あれは星というのですよ、と教えられて、あれは落ちてこないの、と幼い博雅は問うた。

いいえ、落ちてきませんよ、決して届かないのです、と答えられ、ひどくがっかりした。あんなにきらきらしてきれいなものなのに、手に入れることはできないのか。

つれない星を乞う気持ちを、歌に詠むことが雅なのだと教えられ、首を傾げた博雅は、やがて少しずつ大人になった。風流も何となく理解するようになり、星はますます遠いものになった。

手を伸ばすことも無くなっていた。あの日までは。

安心して身を委ねる晴明を横目に、博雅は心中に語りかける。おれは星を手に入れたよと、あの日の幼い自分に、博雅は少しだけ自慢したい気持ちだった。

   

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