月の美しい夜であった。
晴明は独り、濡れ縁でぼんやりと、空を見上げていた。数日前のことを、思い出していた。
「もうすぐ中秋節であるなあ、晴明」
円に近くなった月を見ながら、博雅はしみじみと言った。
「源高明どのの屋敷では、盛大な宴が開かれるようであるよ」
「ほう」
晴明は、杯を干した。その唇が、薄く紅を刷いたように赤い。
「おまえも、その宴にゆくのか」
「おれか。いや、おれはゆかぬ」
博雅は杯を置き、少し照れたように笑った。
「おれは、おまえと月を見たいのだよ、晴明――――」
「ふふん」
「おまえ、笑ったな」
頬を膨らまし、博雅は不満そうにしている。
「笑ってなどおらぬ」
「いいや、笑った。ふふん、と言うたではないか」
「そう聞こえたかよ」
「ああ、そう聞こえた」
「物好きなことよ、と思うてな」
「物好きなことがあるか。ここでおまえと見る月が、いちばんしみじみと、心に沁み渡るのだよ」
「ふうん」
「ならばおまえはどうなのだ、晴明。いやなのか」
少しむきになって、博雅は尋ねた。
「いやではないさ。おまえと月を見るのが、おれも好きなのだよ、博雅」
「ならば、よいではないか。決まりだな」
博雅は歯を見せて、嬉しそうに笑った。
そして、今日の出来事である。
出仕した晴明の、控えている一室の外から、密やかな話し声が漏れ聞こえてきた。
「――――ほう。では、博雅どのはまた」
「もう、今日で三日目であるよ。あの方は新しく譜面が見つかるたびに、憑りつかれたようになるのう」
「内裏に在っても、ひどくぼんやりした様子であるしなあ」
「実頼どのが昨晩、女のところへ通うておられたときにも、笛の音が聞こえてきたというよ」
「今朝など、博雅どのが朱里どのの袿の裾を踏んだために、朱里どのは転んでしまわれたというではないか」
「なんと。朱里どのは、お怒りになったのではないか」
「いいや、博雅どのが、まっさおになって平謝りしたおかげか、笑って許しておいでになったそうだ」
「博雅どのが寝る間も惜しんで笛を吹いておられるのを、皆知っておるからなあ」
「あのお方だからこそ、許されるのであろうよ」
「そうであろうな。博雅どのは、きっと今宵も月には目もくれず、笛をお吹きになるのであろうよ」
「かような月は、なかなか見られぬというのになあ――――」
とっぷりと、日が暮れた。晴明の待つ濡れ縁に、やはり博雅は姿を現さなかった。
ほう、と息を吐き、晴明は空を見上げた。明るい、大きな満月だった。
来ないだろうな、と晴明は思った。楽に夢中になれば、博雅は十日など平気で、そちらに没頭してしまう。
それを責めるつもりなど、晴明にはなかった。そのように楽に一途で、まっすぐな性格もまた、晴明は好もしく思っていた。
しかし、少しも寂しくないと言えば、嘘になる。おまえとともに月を見たい、そう言っていたのに。
しらしらと照らされた庭で、虫の音ばかりが大きかった。
「ばか」
ぽつりと呟いた言葉は、秋草の上に散った。晴明は柱に背を預け、ぼんやりと月を見ていた。
「このようなよい月の晩に、独りかよ、晴明――――」
庭の隅から、声が聞こえた。ざくざくと草をかき分け、どかりと濡れ縁に座ったのは、白髪をぼうぼうと伸ばし、汚れた水干を着た老人であった。
「お久しゅうございます、道満どの――――」
「中秋節ぞ。貴族どもが分かったふうに、ばか騒ぎをしているというに、おまえは通う女もおらぬのか、晴明」
「ええ。あいにく、そのようなお方は」
おりませぬ、と赤い唇が型取った。それを見て、道満はにいっと、黄色い歯を見せた。
「聞いたぞ。博雅どのは、今宵も楽に耽っておられるそうだな」
「そのようでございますね」
道満は手を伸ばし、くいと晴明の頤を持ち上げた。
「妬いてはおらんのか、晴明」
「さあ、どうでございましょう」
微笑んで、晴明はすらりと道満を見返した。しばしその顔を眺めていたが、道満は
「ふん」
と鼻を鳴らし、手を放した。
すうっと、蜜虫が廊下を曲がり、盆を持って現れた。瓶子がひとつと、杯がふたつ、その上に乗っている。
「おう、これはよい」
道満は、舌なめずりをした。瓶子と杯を、晴明と道満の間に置き、一礼すると、蜜虫はしずしずと、廊下を去って行った。
「では、まずは一献」
「おう」
晴明の酌を受けた道満は、ぐっと一息に、それを飲み干した。
「ふむ。なかなかじゃな、晴明」
「それは、ようござりました」
「注げ」
「はい――――」
晴明の傾けた瓶子を、道満は再び受けた。
酒を満たした杯を、道満はくるくると回していた。揺れる水面に満月が映っているのを眺めながら、晴明は問うた。
「道満どのの方こそ、ともに月を見たいというお方は、おられないのですか」
「おらぬ」
月ごと身の内に取り入れるようにして、道満は酒を、一気に流し込んだ。
煙に巻くでも、揶揄するでもない、道満らしくもない簡潔な返答に、晴明はしばし、その横顔を見詰めた。幾何かの沈黙に、虫の音ばかりが大きかった。
「儂の好いた女は皆、世を儚んでしまうようであるからなあ――――」
やがて道満は、ぽつりと言った。
空になった杯を膝の上に置き、道満はぼんやりと、空に顔を向けていた。
ぼうぼうと伸びた髭や、風雨に晒され荒れた肌が照らし出され、顔中に刻まれた皺が、深い影を作っていた。
「そのようなことは、ございませぬよ」
晴明が、優しい声で言った。
道満は返事をしなかった。腕を枕にし、ごろりと横になった。
「――――酔うたぞ、晴明」
「さようでござりますか――――」
風がさやさやと、庭を撫ぜてゆく。火照った頬に、それがひやりと心地よく、道満は目を細めた。
「恋とは、苦しいものであるなあ、晴明よ」
「さようでござりますなあ――――」
二人はいつまでも、空を見上げていた。
それからまた、三日が過ぎた。
どすどすと騒々しい足音に、柱に背を預けていた晴明は、目を開けた。
「晴明!すまぬ!」
膝に手を付き、開口一番、騒々しくやって来た博雅は謝った。
「すまぬ。新しい譜面が手に入って、夢中で吹いておったのだ。難しい曲で…いや、言い訳に過ぎぬのは分かっておる」
ひどく落ち込んだ口調で言い、博雅は再び、がっくりと頭を垂れた。
「おれのほうから、おまえと月を見るのだと言ったのに…嘘ではなかったのだ。ほんとうに来ようと思っていたのだよ」
「気にするな、博雅」
「しかし、おまえに嘘をつくことになってしまったのだ。すまぬ。…おまえは、待っていてくれたのだろう?」
「構わんさ。もう、終わったことだ。それより、その曲を聞かせてはくれぬか。笛は持ってきているのだろう」
「あ、ああ。もちろんだ。聞いてくれるのか」
「聞かせてくれ。楽しみにしておったのだよ、博雅」
「おまえに聞かせたいと、そう思っていたよ、晴明」
いそいそと、博雅は懐から、葉二を取り出した。
博雅の奏でる調べに包まれて、晴明は目を閉じた。
「――――苦しいことだけでは、ありませぬなあ」
庭の中ほど、桜の木の根元に、貝殻が落ちていた。それを見ながら、ぽつりと晴明は呟いた。
「なに、苦しいのか、晴明!?なにか病気でもしたのか!?」
焦ったような声を出す博雅に、晴明は笑って、いいや、こちらの話だ、と告げた。
「しかし、苦しいというのは…おまえ、おれが来ぬ間に、何かあったのではないか!?」
慌てる博雅を余所に、晴明はふっと微笑んだ。
「どうやらそのようであるなあ、晴明よ――――」
遠く離れた破れ寺で、二枚貝の片割れを耳から離し、道満は呟いた。
いくらか細くなった月が、荒れた屋根を照らしていた。