さやさやと、秋の風が吹く。
叢に揺れるは、女郎花、龍胆。
その影では、虫たちが翅を震わせ、一心に鳴いている。
白い月がぽかり、虚空に浮かぶ。
濡れ縁の上、晴明と博雅は、向かい合って座していた。

「よい夜だな、晴明」

ふかぶかと息を吸い込み、博雅はうっとりとした声で言った。

「ああ」

ごく低い声で、晴明が答える。
長い睫毛が、頬に影を落とす。紅い唇は、酒に濡れてつやつやと光っていた。
秋深し。その言葉に相応しく、天は高く、空は澄んでいた。

「…なあ、晴明」
「どうした」

目線を上げると、博雅が物問いたげな目で、二人の間を見詰めている。

「これも、酒か?」

そこにあるのは、二つの杯と一つの瓶子、更にもう一つの、幾らか大振りの瓶子だった。
常であれば、瓶子は一つしか置かれていないのだが。今日あるそれは、何だか風変わりな、でこぼこした形である。

「酒、と言えば酒だがな。おまえ、飲んでみるか」
「…普通の酒ではないのか?」

何処かからかうような響きを感じ、博雅は多少警戒する。

「何を怖がっている。酒だぞ。飲まんのか」
「の、飲まん」
「何故だ。折角あるのだ、飲めばよいだろうが」
「やめておく」
「どうして飲まんのだ」
「おまえのその顔は、何かたくらんでいる顔だ」
「何を人聞きの悪い。少しばかり犬になるだけだ」
「ほら見ろ、犬に、……犬!?」

叢の中、秋の花がふわりと揺れた。

「昨日の話だ」
「うむ」
「一人、従者が訪ねてきた。主人を助けてくれと言ってな」
「ふむ」
「ひどく急いでいたな。今すぐにでも頼めるかと言われたから、とにかく話を伺いましょうと言うと、ほどなく牛車でそのお方が来た。と思ったのだが」
「だが?」
「降りてきたのは、犬だったのだよ」
「何!?」
「どうやらその男、犬の姿になってしまって戻らないらしい」
「それで、助けてほしいと」
「そういうことだ。で、何故そのような姿になったのかを聞いたところ、原因がこれだったのだ」

晴明は、例の瓶子を指差した。

「酒か?」
「ああ。どうやらその主人、近く宴会に招かれていてな。余興にと、犬になってみようとしたわけさ」
「…この酒を飲めば、犬になれるのか」
「犬以外にもなれるらしいがな。犬の毛を入れれば犬に、猫の毛を入れれば猫になれるのだと」

「ふうん」
「唐より帰ったとかいう僧に、作り方を教わったらしい。それでごていねいにも、本当に犬になれるか試してみたのだ」
「その僧には、戻り方は聞かなかったのか」
「半刻もしないうちに戻りますと言われたらしいのだがな。三刻経っても戻らなかったのさ」
「それは気の毒にな」
「そのような怪しいものに手を出さなければよかったものを。人を楽しませようとするのはいいが、ほどほどにということだ」
「まぁ、それもそうだな。…で、そのお方は元に戻ったのか」
「調べてみたが、特に害になりそうなものではなかったからな。一日おいて、酒が抜けても戻らないようならまたお越しになってくださいとお願いしたが、どうやら無事に戻られたそうだ」
「ふうん」

博雅は瓶子を手に取り、匂いをかいでみた。

「…普通の、酒のようだな」
「そうだな」
「しかし、何故それがここにあるのだ」
「酒の成分を調べるために持ってきていただいたのだが、そのお方も懲りたらしい。余りはご自由にと言われたのでな。とっておいた」
「…おまえ、それをおれに飲ませようとしたのか」
「冗談だ」

博雅はふくれっつらをしていたが、晴明は涼しい顔のままだった。

相も変わらず、月は空に輝いている。
叢の中、虫は鳴く。

「晴明、笛を吹いても構わんか」

博雅の言葉に、晴明は目を向けた。

「ああ、ちょうどおれも、おまえの笛を聞きたかった」
「では、」

葉双を、唇に当てる。
清涼な夜の空気に、その音が流れ出した。


「…博雅、」

その余韻が消えた頃、晴明が静かに言った。

「やはりおまえは、おれなど及びもつかない、…天に愛されて生まれてきたのだな」
「な、何を言う」

顔が熱くなる。下ろした葉双をしまいこみ、博雅は頭を掻いた。

「そうでなければ、あのような音は出ぬぞ。いつ、何度聞いても飽くことは無い。いつの時も、また違った美しさがある」
「ば、ばか」
「何がばかだ」
「そのように誉めるな。照れる」
「いいではないか」

楽しげに、杯に目を伏せる。赤くなった顔を隠そうと、博雅は瓶子を手に取り、注いだ酒を一気に飲んだ。

「おい、博雅、おまえ…」
「何だ、晴明…あっ!?」


その手にあったのは。
すっかり忘れられていた、一回り大きな、でこぼこした瓶子だった。

「ぐっ…」
「博雅!」

ぐらり、視界が回る。
吐き気を覚え、手を着く。
身体の中が掻き回されているような、そんな気持ち悪さがあった。
必死に息を吸い込む。
と、ほんの数秒後───博雅にはもっと長く感じられたのだが───始まった時と同様、突然吐き気は治まった。
いつの間にか閉じていた目を、恐る恐る開く。

「博雅…」

目の前に晴明がいる。
呆然とした彼の、その目に映っていたのは。

黒い大きな、むくむくとした犬だった。


「おまえ、本当に飲むやつがあるか」

呆れたように溜め息をつくその前には、なんだか途方に暮れたような犬が座っていた。

「しかしまあ、本当に変わるものだな」

しげしげと見られ、犬と化した博雅は、若干の居心地悪さを覚えた。

「どうだ、尻尾のついた感想は」

どうなんだ、鼻先をつつかれる。
おまえ、楽しんではおらんか。そう問いたくても、この長い口からは、悲しげなくんくんという声が出るだけである。
ぺたんと耳を伏せてしまった犬、もとい博雅に、晴明はふむ、と呟いた。

「…まあ確かに、このままではつまらんな」

何がだ、そう言う暇もなく(言えないのだが)、晴明は博雅の鼻先に、人差し指と中指を立てた。
ぶつぶつと口の中で何か呟いた後、彼はすっと手を放した。

「どうだ博雅」
「…何がつまらんのだ、何が」

黒い犬は、博雅の声で喋った。

「はて、何のことかな」
「おまえな…しかしまあ、話には聞いていたが…本当に、犬なのだな」

改めて己の身体を見回す。黒いふさふさとした毛に覆われたそれは、何処からどう見ても犬だった。

「おまえ、他のいきものにも、喋れるようにできるのだか」
「おまえは元が人だからな。普通の犬ならもう少し面倒なのだが」

そう言うと、晴明は犬の頭に手を伸ばした。

「…何をしているんだ、おまえは」
「どうだ、気持ちいいか」

わしわしと頭を撫でられた。完全に、犬を見る目である。

「おい晴明、いくら犬の形をしていても、おれはおれなのだぞ」
「残念ながらおまえの尻尾は違うようだがな」

あっさりと返され、黒い犬は鼻に皺を寄せた。さすがに、はたはたと勝手に揺れる尻尾に気付かないふりはできなかった。

「ま、よいではないか。一度きりの人生だ、たまには犬になってみるのもよいではないか」
「他人事だと思って…戻らなかったらどうしてくれるのだ」
 

そこまで言って、博雅ははっとした。

「せ、晴明!これはどのくらいで戻るのだ!?」
「なんだ、 戻りたいのか」
「当たり前だろう!」
「まあ、一杯だけだったからな。数刻もすれば戻るだろうさ」
「そうか…」

そうは言ったが、未だに少し不安そうな博雅に、晴明は言った。

「なあに、瓶子に丸々一本飲んだお方も一日で戻ったのだ。もし戻らなくとも、おれがなんとかしてやるさ」
「そうだな」

それを聞いて安心した博雅の頸を、白い指がくすぐった。

「ああ、おれがきちんと面倒を見てやる」

小屋でも作らせようか、そう楽しげに言う彼に、博雅は脱力した。

「おまえな…」
「冗談だ」

なんだかどっと疲れて、博雅はその場に寝そべった。視線がいつもより低いのが新鮮だった。
ぼんやり庭を見る犬に、晴明がにじり寄った。

「晴明?」

すぐ近くまで来ると、晴明はごろりと横になった。
博雅の脇腹を、枕にして。

「…晴明」
「なんだ」

上目遣いに見られる。その顔に少しどきりとしながらも、博雅は続けた。

「なんだ、この体勢は」
「嫌か」
「嫌ではないが…」
「よいではないか。折角おまえが犬になったのだ、こうしないという手はあるまい」

ふかふかした毛に、頬を擦り寄せられた。

「…やっぱりおまえ、楽しんでいるだろう」
「さあて、どうだかな」

声を立てて笑うと、彼は目を閉じてしまった。
犬の形をした博雅は頭を巡らせて、その様を見た。

幸せそうに綻んだ口元を、ぺろっと舐める。
こら、そう言いながら耳を引っ張られた。
それでも何処か、柔らかな雰囲気に。

まあ、たまにはいいか。博雅は、そう思ってしまった。

「…晴明」
「……」
「おい、晴明」
「なんだ」
「おまえ、何だか機嫌が悪くはないか」
「知らん」
「…まさかとは思うがな。おれが戻らなければよかったのにとか、そう思っているのではないだろうな」
「……」
「今度は、おまえが飲んでみたらどうだ」
「断る」
「……」

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