薄明かりの中、晴明はそっと半身を起こした。
腰に絡み付く、太った腕を引き剥がす。腕の主が低く唸った。ちらりと見たが、目を覚ますことは無かった。
身体に残る鈍痛に眉をひそめる。それでもこのじっとりとした空間から抜け出したくて、晴明はゆっくりと立ち上がった。


澄んだ空気を吸い込む。太陽は漸く顔を出したようだ。
何となく、牛車には乗りたくなかった。未だ何かに囚われているような気になる。この気持ち悪さを、触れた手の感触を、早く忘れてしまいかった。
愛など無い性行為。それは向こうも同じなのだろう。執着の中に、どこか軽蔑が感じられる。
生きるため、それが必要だったのは昔の話だ。今はもうそんなことなどしなくとも、陰陽師として生きていけるだけの自信はある。
何故止めないのか?それはきっと、止める理由が無いからだ。身体に負担はかかるが、今更断るというのも面倒なのだ。たった数刻、我慢するだけ。もう慣れてしまっている。きっと。
橋を渡る。朝靄が漂い、ぼんやりと霞んだ川は、その流れを止めているようにも思われた。

橋の中腹まで差し掛かったその時、辺りに楽の音が響いた。
川原を見下ろす。霞の中から、その音色は響いてくるようだった。
聞いたことの無い、澄んだ美しい調べ。伸びやかで、しかし何処か哀しげな響きを持っていた。
霞の向こうに目を凝らす。
黒衣を身に纏う男の姿が見えた。

───源博雅、か。

この世に生を受けたその時、何処からか数多の楽の音が響き渡ったという。才をもって天に祝福された男。
晴明はしばしその音色に聞き入った。次々と紡がれる音は、靄に溶けて損なわれることもない。胸を締め付けるような響きだ。しかし何処か、力強くもあった。盛りの時期を過ぎ、ただ一輪残された花のような。孤高に浮かぶ、月のような。
白んでゆく空の下、それはまるで永遠に続くように思われた。ただ一つの音も聞き逃したくなくて、息さえも詰めていた。

しかしやがて、低く長い音を残し、彼は笛を下ろしたようだった。
川面に反射し、霞の中で余韻が響く。それらを味わうかのようにその男は暫く佇んでいたが、やがてゆっくりと歩き始めた。
川原を上がり、此方に背を向けて小さくなってゆく。橋の上にその音を聞くものがあったことなど、気付いてもいないのだろう。

冷えた頬に手をやり、自分が涙を流していたことに、晴明は初めて気付いた。と同時に、思い出した。何故自分が、ここにいるのか。
こんな自分でもまだ風流が解せるのかと、晴明は笑った。
誰に聞かせるためでもない。ただ自分の思いを笛の音に託そうと、一人川原に立つ彼と。
何の感情も無く男に抱かれ、その身体を引き摺って帰路に着く。この手に持つものなど何も無い自分と。
恐らく関わることなど、この先も無いのだろう。また、そうあるべきなのだ。自分たちを一時繋いだ笛の音は、もうその余韻も消えてしまっていた。


指先で涙を拭った。
鈍い痛みをこらえ、歩き出す。
何も見えない未来へ。

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