「一体どこへゆくというのだ、博雅」

晴明に先立ち、博雅はただ歩いていた。
時間が無いのだ。早く、彼を連れて行かねばならない。
草を乱暴に踏みしだく。衣の裾が露に濡れる。辺りの空気も、しっとりと湿りを帯びているような、明け方の山道だった。

「おい、博雅」
「もう少しだ」

焦れたように声を掛ける晴明を、博雅は振り返りもしなかった。たぶん、今彼の顔を見てはいけない気がした。
まともな答えを返さない博雅に呆れたように晴明は溜め息をつき、それでも黙って着いてきた。遅れぬように足早に進むその足音を聞きながら、博雅は滲む汗を拭うのを堪えた。
気付かれてはいけないのだ。自分の焦りを、そしてその目的を。

─────目的?それは、誰の?

靄の中にちらりと光るものが見えたような、そんな感覚に襲われて、博雅は足を止めかけた。しかしその正体を掴めぬままに、思考は再びぼんやりと霞がかってしまう。
早く彼を連れてゆかねばならぬ。そうでないと。


突然目の前が開けた。山の中腹に、木々が切り払われ、ぽっかりと拓けた空間。
しらしらと流れる沈黙。しかしどこか違和感を感じたのは、博雅だけだっただろうか。

「───御苦労。中将殿」

山の斜面、木陰から、一人の男が姿を現した。その口元は薄く笑ってはいるが、目には剣呑な光を浮かべている。

「ご尽力、感謝いたしまするぞ。貴方でなければ、きっとそのお方を誘い出すことなどできなかった」

男が右手を挙げた。合図に応え、十、いや二十人ほどいるだろうか、武装した男たちが、そこここの木陰から進み出た。
手に手に弓を構え、その切っ先は過たずこちらを向いている。

「お退きくだされ、博雅どの。危のうござりまするぞ」

その言葉に、一歩、二歩と、博雅はその標的から離れた。そしてそのとき初めて、博雅は晴明を見たのだ。

「博雅」

晴明は微笑んでいた。全てを悟った目をしていた。涙の一筋も流していなかった。

「晴明。…すまぬ」

絞り出すように、博雅は言った。こうするしかなかった。こうしないと。

───こうしないと、どうなる?

「射よ!」

男の右手が降り下ろされた。その刹那、博雅は、幼い頃に覗き込んだ深井戸を思い出した。
どこまでも深く、底の見えぬ昏さを。果てしなく落ちていってしまうような、そんな錯覚を。
それが晴明の目に浮かんだ色で、そして初めて見せた哀しみの感情だと、気付いたのは一瞬だった。

「おまえのためなら、いつだって死ねたのに」

その口元には、未だ微笑が浮かんでいる。


「晴明!」

博雅は跳ね起きていた。薄闇の中に視線をさ迷わせてやっと、ここが晴明の屋敷で、たった今まで自分が眠っていたことを理解した。

「…博雅?」

すぐ隣から声がした。見ると、日の昇らぬ暗がりの中にも、白い肌が浮かんでみえた。
晴明が静かに身体を起こすと、その肩からはするりと掛布が滑り落ちた。

「悪い夢でも見たかよ、博雅」

未だ鼓動の収まらぬまま、博雅は晴明を見詰めた。今のは夢だ。これはいつもの日常で、晴明は生きている。

「…晴明」

博雅は、晴明に触れようとした。抱き締め、彼が生きてここに在ることを実感したかった。しかし伸ばしかけた手は、途中で止まった。
自分は、晴明を騙したのだ。殺そうとしたのだ。直接手を下したのではないまでも、あれでは自分が殺したも同然だった。
なぜ自分がそのようなことをしたのか、博雅は思い出せない。夢とはそのようなものだ。勿論望んでしたのではなかったし、家族か何かを、人質に取られていたのかもしれない。
それでも、許されるわけではないのだ。自分の夢の中とは言えども、博雅はそのようなことをした自分を恐れた。そして恥ずかしかった。

「…博雅?」

闇の中で、小さな光が反射していた。時折瞬いて消えるそれが晴明の瞳であると、気付いた瞬間に博雅は背を向けていた。

「すまぬ。少し、嫌な夢を見ただけだ」

それだけ言うと、博雅は掛布に潜り込んだ。今、晴明に触れる資格は、自分には無いように思われた。
再び眠るのは怖かった。けれどそうするしかなかった。晴明に悟られるわけにはいかないのだ。この不安を。浅ましい自分を。

「……」

隣で晴明が、身じろぎした。再び眠りに就くのかと思われたが、こつりと肩に当てられた額から、彼がすぐ側に寄り添ったことが分かった。

「…晴明」
「博雅」

穏やかな声だった。慈しみが溢れるようなその声は、博雅の心にすうっと染み込んでいくようだった。

「博雅、大丈夫だ。おれはここにいるよ」
「…ああ」
「離れたりせぬよ」
「違う、おれが…」

そう、騙したのは自分なのだ。
そしてふと思い至った。自分は夢の中で、初めて晴明を騙したのだ。
晴明を連れ出すとき、彼の顔を見られなかったのは、罪悪感を悟られそうで怖かったからだ。問い掛けにもろくに答えず、半ば強引に連れ出したのに、晴明は黙って山道を着いてきてくれた。その信頼を裏切ったと知ったときの晴明の顔を、最後に見せた目の色を、博雅は恐れていたのだ。

「おれは、おまえを…」

言葉尻が、情けなく震える。ほんとうのことを言えば現実でも、晴明を哀しませるのではないかと思った。

「言わぬでもよい」

ぽつりと、晴明は言った。

「博雅、こちらを向いてくれぬか」

掛けられた言葉にも、博雅は動くことができない。

「博雅」

それでも尚呼び掛けられ、博雅はゆっくりと向き直った。

「おれは、ここにいる」
「…うん」
「おまえの隣にいられて、おれはほんとうに幸せだよ」

薄闇の中、晴明が微笑んだ気配があった。

「夢でおまえが、何をしたかは分からぬが────」

ひいやりとした白い手が、博雅の頬に触れた。

「夢の中のおれにかまけて、現のおれを蔑ろにするのでは、承知せぬぞ」

むに、と頬を摘まれて、博雅はようやく笑えた。

「…夢の中でな、」

ぽつりと、博雅は言った。

「おれは、おまえを騙したのだ。…騙して、殺そうとした」

晴明は、黙って耳を傾けている。

「たぶん、おれも脅されていたのだと思う。だとしてもだよ。だとしてもおれは、おれが許せぬのだ」
「うん」
「ほんとうにそのようなことがあったとしても、おれはおまえを騙したりせぬ。絶対にだよ、晴明。…しかし、心の奥底には、そんなおれが、おまえを騙して助かろうとする卑怯なおれが、潜んでいるのではないのか。そう思うと、怖いのだよ」
「うん」
「だからな。おまえの側にいるのが、少し不安になったのだ。おれには、その資格は無いのではないかと思うたのだ」
「…うん」
「軽蔑してはおらぬか、晴明。おれは、汚い男なのかもしれぬ。ほんとうは、そんなふうにおまえを売るような男かもしれぬ」

そこまで言うと、博雅は口をつぐんだ。晴明の言葉に、打ち据えられるのを恐れた。

「博雅」

柔らかく呼び掛けられ、博雅は目を上げた。

「軽蔑などしないさ」
「…晴明」
「夢はな、博雅。鏡ではない」
「うん」
「おまえの本質だとか、未来を映したものではないのだ」
「うん」
「だからな、大丈夫だ。それに」
「…うん」
「夢の中で、もしおまえがおれを騙したとしても」
「……」
「きっとおまえは、夢の中で散々悩んだのだろう。ずいぶんと苦しんだだろうさ」
「…ああ、よく覚えておらんのだが、たぶん」
「それなら、それでよいのだよ。おまえが保身のために、おれを売ったりすることなどないのは、よくわかっているさ」
「…うん」
「おまえはいつでも、よく考えて、正しく在ろうとする男だ。たとえそこに、正解など無くとも。そのおまえが夢の中で悩んで、出したのがその答えだったのだろう。それならば、それは卑怯とは言わぬ」
「……」
「おまえがそうやって出した結論なら、それがおまえにとって最善だったのだろう。たとえその結果、おれを騙すことになったとしても、おれはおまえを恨みはせぬ。軽蔑など、もっての他さ」
「晴明…」

胸の痛くなるような信頼に、博雅は頭を垂れた。

「おまえはおまえであればよい。前に言っておったではないか。桜が桜であるように、博雅も博雅たるように生きたいと」
「ああ」
「そういうことだ。おまえが精一杯生きておれば、きっと悪いようにはならぬ。おれが保証する」
「…そうなのか」
「ああ、そうさ」

陰陽の理を見つめてきた男は笑う。ようやく博雅は、息ができたような気がした。

「…晴明」
「どうした、博雅」
「ありがとうな」
「ふふん」

腕を伸ばし、晴明を腕の中に引き込んだ。このあたたかさは、なんと幸せなのだろう。

「なあ、晴明」
「うん?」
「この先、どのようなことがあったとしてもだ」
「ああ」
「おまえを死なせるような選択だけは、絶対にせぬからな」
「ふふ」
「だからな。おまえも、おれのために死ぬようなことだけはしてくれるなよ」
「…ふうん」
「おれにとって、それは死ぬより不幸なのだから。それだけは許さぬぞ」
「覚えておくさ」
「こら、晴明」
「絶対にか」
「絶対にだ」
「わかったよ、博雅」

くつくつと笑う晴明を、博雅はぎゅっと抱きしめた。
宵闇は、明けようとしている。
 

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