「博雅さまはそう仰いますが、しかし…」

そう言いかけた晴明であったが、博雅がはあ、と零した溜め息に、言葉を途中で打ち止めた。

「なあ、晴明」

「はい」

「それだ」

「…は?」

杯を一息に干すと、博雅はじっと晴明を見据えた。

「その改まった口調は止めてくれと、何度言えば分かるのだ」

「ああ、…そのことでございますか」

晴明は少し困ったように眉根を寄せた。

「しかし、私のような者が、博雅さまにそのようなことはとても」

「おれがよいと言っておるのだ。何に気を遣う必要がある」

「誰に聞かれるか分かりませぬゆえ」

「晴明。おれは何も、誰の前でもそうしろと言うておるわけではないのだぞ。せめてここにいて、おれと二人きりのときぐらい、力を抜いた話し方をしてくれと言うておるのだ」

「はあ―――――」

「何のかんのとおまえは言うが、この邸におるのは、つまるところおまえと式ばかりではないか。蜜虫どのがそのようなことを口外するものか。なあ」

ちょうど空になった瓶子を下げに来た式神に、博雅は問いかける。蜜虫は微笑んで、何も言わず瞼を伏せた。

「ほれ、こう言うておるではないか。何に気を遣うことがあるのだ」

「そのように言うたわけでは…」

「言うたも同然だよ。この方が口外などせぬこと、おまえが一番分かっておろう」

「それはそうでございますが」

「それとも、嫌なのか」

「嫌というわけでは―――――」

「ならば何故だ。晴明」

唇に困ったような笑みを含ませ、晴明は博雅の杯に酌をした。

「とても畏れ多きことにございますゆえ」

「おまえが畏まらねばならぬほど、おれは偉い男ではないぞ」

他の殿上人たちが聞けば目を回しそうなことを、目の前の男は平然と言ってのける。晴明とてこのように言ってはいるが、その実階位が上の相手だとて即ち崇めたり、己を卑下したりなどしない。

単に面倒なのだ。厄介事は御免だった。特に権威を食って生きているような連中相手では。

強い者にはへりくだり、弱い者にはそれを強いる。そんなことはこの都では、息をするかのごとく当たり前なのだ。目の前で唇を尖らせる彼を除いては。

「―――――ならば、いつかそのうちに」

「そうやって、またおまえははぐらかすのだな」

「人に知られれば、博雅さまとて困ったことになりましょう」

「そのようなこと、おれは気にせぬというに」

「そうわがままを言うものではありませぬ」

やんわりと窘められ、博雅はぷっと頬を膨らませた。その表情のまま杯を運ぶ横顔を、晴明はひっそりと見た。

彼のことは嫌いではなかった。面白い男だと思う。穏やかで優しいけれど、その実誰よりも敏く真実を見抜ける男だ。友になってくれと頭を下げられた時は驚いた、しかしいつの頃からか、彼の来訪を待ち望むようになっていた。

そして一方で、彼の一面にやきもきさせられるようにもなった。この都に生きるには優しすぎる男だ。その真っただ中にありながら、人を蹴落としのし上がろうとする欲にはあまりにも遠い存在だった。

宮中にて鉢合わせれば、おう晴明と堂々と声を掛けてくる。周囲の奇異の目などどこ吹く風であった。己のような者と親しんだところでよいことなど無いのだ。むしろそれによってよからぬ噂の立つことを恐れるべきなのだ。

血にも才にも恵まれたはずの彼ならば、振る舞いを相応のものにすれば、それだけで人の上に立てるのに。

このような心配をするなど己らしくも無い。放っておけばよいのだ。本人が望むことだ、滅ぶなら勝手に滅べばよい。かつての自分ならそう考えただろう、晴明はそう思う。

しかし嬉々としてこの邸に通うこの男に、桜花を仰ぎ、おまえとこれを見られてよかった、と恥ずかしげも無く嘯くこの男に、いつしか毒気を抜かれていたのかもしれない。

彼の歩む道が明るくあるようにと、気付けば願うようになっていた。

そのためには一線を画した方がよいのだ。妖の子と呼ばれ、真の名さえ隠し生きるような存在の己などとは。越えてはならぬ壁がある。それを軽々と跨ごうとする彼自身から、彼を守らなければならない。

そんな晴明の心中も知らず、博雅は未だ不満そうに頬を膨らませている。けれどそんな彼の横顔を見るにつれ、それでよいのだとも思えてくる。おかしな話だ。

少しは人の世のことに聡くあればよいのにと思いながらも、その真っ直ぐな性質を持ち続けてほしいと願っている。

よい漢なのだ。天性の人たらしとでも言うのかもしれない。まさか自分がそのようなことを思うなんて、と晴明は内心で笑った。

「晴明」

「はい」

呼ぶ声に顔を上げれば、目の前の男は何とも言えぬ表情で自分を見詰めている。

「どうかなさいましたか」

「あ、いや…」

視線を逸らし、何でもない、と博雅は呟いた。晴明は首を傾げたが、彼に説明する気の無い以上何ができるわけでもない。黙って視線を庭に転じた。

風が桜の葉を揺らした。

 

 

 

 

 

「あ…」

思わず漏れた、というような小さな声であった。ともすれば衣擦れの間に紛れてしまいそうなそれが博雅の耳に届いたのは、その響きにどこか覚えがあったからかもしれない。

「どうぞ、お許しを…」

「よいではないか。おぬしとて嫌いではないのだろう」

「そのようなこと―――――」

「聞いておるぞ。宮中でも噂になっておるわ。範義とのこと」

「何を仰います。私はそのようなことなど、」

「何を言わずともよい。わしがよいと言うておるのだ。おぬしは何も考える必要など無い」

「このようなところ、人が参りますゆえ」

「ならば今宵、わしの所に来るか」

「それは、」

「わしはそれでもよいぞ。どちらかおぬしのよい方を選べ」

「…克之さま」

「来るのか、来ないのか」

「そのようなことを仰っては困ります」

「選べぬと言うか。ならば、おとなしくしているがよい」

「あ、…どうか、お待ちを、」

話し声が途切れ、再び衣擦れの音が博雅の耳に届いた。根が生えたように立ち尽くしていた博雅は我に返る。考えを纏める暇も無く、気付けば乱暴に御簾を潜っていた。

「ああ、失礼。お取込み中でしたか」

「な、何だ。博雅どの」

「晴明、探しておったぞ。すぐに来てくれぬか」

「は」

「おまえでないとならぬのだ。悪いが、急いでくれ」

普段通らないこの廊下を歩いていたのはたまたまだった。手を動かすのと同じくらい口の回る同僚の無駄話に付き合わされるのはいつものことであったが、今日は何だかそれにうんざりしてしまったのだ。

ごにょごにょと適当に言い訳をして部屋を抜け出た博雅を、彼らは気に留める素振りも見せなかった。博雅はふうと溜め息をつく。

同僚だとて容赦などするはずもなく、もし博雅が人々の口の端に上るようなことをしたなら、彼らはやはり嬉々としてあること無いこと捲し立てるのだろう。そういうものなのだと理解はしていても、それを好ましいと思ったことなど一度も無かった。

面倒な状況を脱したはいいが、しかし何処へゆこうという当ても無い。かといってすぐに戻る気にはなれず辺りをぶらぶらしていた挙句に、博雅は大内裏の端、人気のないこの一角に辿りついたのであった。

晴明を探していたというのも、急ぎなどというのも無論嘘であった。しかしこの場合それは方便と呼ぶべきなのであろう。のっぴきならない雰囲気で差し出された手を、晴明は驚いたように見上げた。

「―――――はい、ただいま」

「すまぬな。…晴明をお借りしますぞ、克之どの」

素早く衣を整え、晴明はその手を取った。彼が立ち上がるのを助け、残された克之を一瞥もせず、博雅は廊下に出た。握った手をそのままに、博雅は足早に歩む。いくつかの角を曲がったところで、晴明が声を掛けた。

「…博雅さま」

「なんだ」

困ったようなその声色に、博雅は振り返る。

「あの、お手を」

「ああ、―――――悪い」

己の掌に、思わず知らず力がこもっていたことに博雅はようやく気付いた。白い手を慌てて放す。

「すまぬな。痛かったか」

「いえ、そのようなこと」

何でも無いように頭を振った晴明を、博雅はじっと見た。

「大丈夫か、晴明」

彼は一瞬目を丸くしたが、すぐにその瞼を伏せた。

「…聞いておいででしたか」

「すまぬ。おまえがいい心持ちはせぬと分かってはいたが」

「こちらこそ、お見苦しい所をお見せして…」

「なんだ、おまえが悪いわけじゃないだろう」

「いえ。あれも、私の考えが至らなかった所為にございます」

「そんなわけがあるか」

反駁の声の大きさに、晴明は思わず顔を上げた。

「嫌な思いをしたのはおまえだろう。そのようなことを言うものではない」

「博雅さま、声が大きゅうございます」

そっと窘められ、博雅は慌てて口を噤んだ。

「す、すまぬ」

「いえ。…博雅さまがお気になさるようなことではございませぬ」

尚もそう言う晴明に反論しようとした博雅であったが、何やら男たちの話す声が近付いて来るのに気付いた。言葉に迷ったその一瞬の間に晴明は声を潜め、しかしきっぱりと囁いた。

「博雅さま。これにて失礼いたしまする」

素早く踵を返した晴明を為す術も無く見送る。足音の一つも立てず彼の去った直後、博雅の背後から角を曲がり二人の男が現れた。通り過ぎ様に彼らは、廊下の真ん中で一人立ち尽くす男を怪訝そうに見たが、博雅は気にも留めなかった。

 姿を消すその様が、まるで野生の獣のようだと思った。それでも博雅の手には確かに、滑らかな膚の感触が確かに残っている。

 

 

 

 

 

 

 その夜再び、晴明の屋敷に現れた博雅を、此度は晴明は微笑んで出迎えた。昼間のことについて改めて謝意を述べる晴明に、気にするなと博雅は頭を振った。

「おまえ、ああいうことはよくあるのか」

「ああいうこと、とは」

「その、なんだ。…邸に来いとか、迫られるようなことだよ」

「ああ」

晴明は微かに微笑んで、瞼を伏せた。

「ごくたまに。物好きのする方もおられますゆえ」

「―――――そうか」

そういうときは、どうするのだ。応ずるのか、そう問いたくなったが、博雅は踏みとどまった。己にそこまで踏み込む権利など無いように思えた。それにそう問うてしまえば、晴明を傷付けてしまうのではないかと考えたのだ。

「もしこれからおまえを、…その、困らせるような者があったら。おれに相談するのだぞ、晴明。何かしてやれることがあるかもしれぬ」

「そのようなこと。お耳に入れるに値しませぬ」

「おい、何を言うのだ」

「そのお気持ちだけで、ありがたいことです」

そう言って晴明は、博雅に酌をしようとした。常ならば何も言わずとも、応じて杯を差し出す博雅だが、しかし今は動こうとしない。晴明が視線を上げると、不服そうにこちらを見詰める黒い瞳とかち合った。

「なあ、晴明」

「はい」

「おまえ、おれの友となってくれると言うたよな」

「ええ」

「おまえにとって、友とはなんなのだ」

「…は」

「おまえはおれが何度言うても他人行儀だし、…まあ、それはおまえにも考えるところもあるのだろうよ。しかしどうして、そうやっておれに頼ってはくれぬのだ。おれはそこまで頼りないのか」

「それは…」

「友となってくれと言うたこと、迷惑であったか」

「そのようなこと、決して」

「それならばもう少し、…おれに頼ってくれてもよいではないか」

「……」

「何度言うても、改まった話し方を変えてはくれぬし」

童のような言い草だと自分でも思っている。彼とて意地を張っているのではなく、博雅を慮って壁を拵えていることは何となく分かっている。

その配慮を無視してでも、博雅は壁を越えたかった。晴明に越えてほしかった。だってその方がきっと、二人で過ごす時もずっと楽しいものになるだろうから。

涼やかな風が頬を撫でる。それは青葉の香を孕んでいた。への字に結んでいた唇を緩め、ふっと博雅は息を吐いた。

これではまるで彼を責めているようであった。そんなことをしたいわけではなかった。

彼とて以前に比べれば、少しずつではあるが心を開いてくれていることは分かっている。距離を詰めればさりげなく身を離されることには一抹の寂しさを感じるが、それでも彼は確かに、

出会った当初よりも接近を許してくれている。今はこれでいいのだ。焦らずとも時間はあるし、待つことはそれほど苦にならない性分なのだから。

話題を変えようと博雅が面を上げたとき、紅い唇が少し開き、ふっと小さく息を吐いたのを見た。

「…博雅」

ごく小さな声であった、しかし博雅の心には、それが銅鑼の音のように衝撃をもって響き渡った。

「……」

「……」

「せ、晴明」

「これでよいのか」

「おまえ…」

感動に言葉を無くす博雅だったが、それでも必死に何度も頷いて見せた。

「よい。よい。もう一度呼んでくれぬか」

「…博雅」

「もう一度」

「博雅」

「もう一度」

「いい加減になさいませ」

「こら。何故戻すのだ」

抗議の声は一考だにされず一蹴され、晴明は思わず唖然とする。

「おまえはこれまで何度言うてもそう呼んではくれなかったではないか。おれはその分を今聞きたいのだ。だから、もう一度」

「一体何を言うておるのだ…」

「それだ。それだよ、晴明」

「は」

「おれはおまえとそういう風に話がしたかったのだ」

「…はあ」

きらきらした目で見詰められ、晴明は思わず及び腰になる。しかし目の前の男は、そのような些細なことを気にするような人間ではない。

「な、おまえもその方が話しやすかろう」

「それは、まあ…」

「そうであろう。その方がずっとよいぞ。これからはずっと、そのように話してくれよ」

「……」

「分かったのか、晴明」

「…分かった」

溜め息交じりにそう言いながら、晴明は再び瓶子を手にした。今度こそ博雅はにこにこしながら酌を受ける。

「な、晴明」

「なんだ」

「もう一度、名を呼んでくれぬか」

「……」

「この通りだ。頼む」

頭まで下げられてしまっては無碍にすることもできない。最早諦観の境地に至りながら晴明は口を開いた。

「博雅」

「もう一度」

「博雅」

「…へへ」

「そんなに嬉しいかよ」

「嬉しいさ」

「ふうん」

「なんだ、晴明」

「妙な男だな」

「おまえな。元はと言えばおまえがなかなか呼んでくれぬからであろう」

「だとしてもだよ。いったい何度おまえの名を呼べばよいのだ」

「それは、まあ…」

「これで妙でなければ何なのだ」

博雅は何やら口の中でもそもそと言い訳をした。分かりやすい男だ。なんだか可笑しくてその顔を覗き込むと、二人の視線がかち合った。

「…なあ、晴明」

「なんだ」

「おまえ、笑ったら可愛いよな」

「は?」

唖然として聞き返すと、博雅はひどく慌てた様子を見せた。

「いや、違うぞ。普段のおまえの顔も綺麗だが、何と言うかその、いつもおまえが人に見せる顔は何だか、…その、人形のように見えるときがあるのだ。いや、別にそれがいかんというわけではないのだがな」

「……」

「おれはおまえが、今みたいにふっと笑った時の顔の方が好きなのだ」

「…はあ」

「だからな。おれの前では無理に笑ったりしてほしくないのだ。気を遣ったりなどしなくてよいから、力を抜いていてほしいのだよ」

「……」

「怒ったか、晴明」

恐る恐る顔色を窺ってくる男から、晴明は咄嗟に視線を逸らした。この男は思っていたよりもずっと、自分にとって危険な存在なのかもしれない。被っていた仮面の綻びに、先に気付かれてしまうなど。

長い年月をかけて会得した自衛の手段を、軽々と暴こうとしてくる。それに甘んじてしまえば一体、自分はどうなってしまうのだろう。薄皮一枚で心を隔てることで、淡々と日常を送ることに慣れてしまっていた。

今ここでそれを止めたならば、この目に映る景色は何か変わるのだろうか。

「すまぬ、晴明。気を悪くさせるつもりはなかったのだ」

その態度を怒らせてしまったがためと勘違いしたらしい、博雅が必死の面持ちで弁解する。それを訂正するなどという優しさを、生憎晴明は持ち合わせていない。

謝罪の言葉を柳に風と聞き流し、晴明は杯を手に取った。外見だけでも冷静であろうとする、その思いを気取られないよう気を配りながら。

手心を加える必要など無いのだ。結局のところ彼には敵わないのかもしれない、そんな予感がしているのだから。

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