それはある日のことでございました。
わたくしは木の上で、羽根を休めておりました。
毎日繰り返したことですから、今思えば何処か油断をしていたのでしょう。
忍び寄る大きな猫に、わたくしは気付かなかったのでございます。
これでも妖のものですから、どうにか逃げおおせはしましたが、深手を追って飛べなくなってしまいました。
人間に見付かってはどうなるか分かりません。わたくしは道の端に踞り、ただじっと震えていたのでございます。
そんな時、あのお方がわたくしの前で足をお止めになりました。
わたくしももはやこれまでか、そう覚悟したのですが、そのお方は何やら考えておられるようです。そしてその大きな手で、私をそっと掬い上げたのでございます。
人間の貴族としては珍しいのでございましょう、そのお方は供の者も連れず、おひとりで歩いておられました。
これから一体どうなるのだろう、わたくしはひどく不安でしたが、傷付いたこの身ではどうすることもできません。
そうして着いたのは、そのお方のものでございましょうか、たいそう大きなお屋敷でした。
果たしてこのお方は、私の正体に気付いておられなかったのでしょうか。
いくら鳥のかたちをしているとはいえ、恐れながらわたくしも妖怪のはしくれでございます。これは神の使いだ、いや禍の前触れだと、わたくしを見た人間はそれは騒いだものでした。
しかしそのお方は、なんの疑いもなしに自らわたくしに手当てをしてくださったのでした。
ええ、わたくしはひどく驚きました。人間とはみな同じ、妖怪と見ればどんなものでも恐れ騒ぐ、愚かないきものと思っておりました。こんなふうにわたくしに触れてきたのは、この方が初めてでございました。

その夜は月がたいそう美しゅうございました。
あの方は庭で、笛を吹いておられました。わたくしはと言えば、庭に面した濡れ縁の上におりました。
ああ、その時のことは決して忘れません。
澄んだ音色が辺りに響き渡ります。まるでこの身の傷も癒されてゆくように思われました。わたくしはその音に乗って何処までも高く、あの月に届くほどに飛んでゆきたいと願いました。

そうして四日間、わたくしはそのお方にお世話になりました。
毎晩そのお方は、笛をお吹きになりました。それはまるで夢のような日々でございました。
怪我の癒えた日、あの方は私を庭に出してくださいました。しかしわたくしは、すぐに飛び去ることはいたしませんでした。わたくしは何か、ご恩返しをしたかったのです。
わたくしは長く生きる間に、力を培ってまいりました。人間の女の姿となることもできました。
わたくしは人の作法も少しばかり存じております。ですからわたくしは、その姿であの方のお側でお仕えしようと考えました。
申し上げましょう、わたくしはあのお方に、恋をしていたのでございます。妖しが人間と添い遂げるなど、そうそうできることではございません。それでもわたくしは恥ずかしながら、そう決心したのでした。
あの方がお帰りになったらお話ししよう、そう思うておりましたが、日が沈んでも、月が昇ってもお帰りになりません。
この四日間、あのお方は日が暮れる前には必ずご帰宅なさっておりました。
これはどうしたことでございましょう、もしや百鬼夜行にでも出くわしてしまわれたのでしょうか。
そう思うとわたくしはいてもたってもいられず、あの方を探しに飛び立ちました。
方々を回って、それでもお姿が見当たらず途方に暮れた私の目に、一軒のお屋敷が止まりました。
庭に面した濡れ縁の上、あれはあのお方ではございませんか。わたくしは喜び急いで舞い降りようとしましたが、しかしその傍らに、もう一人見知らぬお方が座しているのに気付きました。
そのお方のお顔を見た瞬間、わたくしはひどく驚きました。
それはわたくしどもの間ではひどく恐れられ、あるいは憎まれてさえいる方でございました。
これは何かの間違いではないか、わたくしはそう思い、その庭の木犀の枝に降り立ちました。しかし見れば見るほどに、そのお二人だと確信が持てました。
しかしそれと同時に、わたくしは気付かされたのでございます。
あのお方が、いいえ、お二人ともが、ひどくお幸せそうなご様子だと。
その時は何もお話しされてはおられないようでした。
ただ寄り添っている、それだけでした。しかしほんとうに満ち足りて、安らいでおられたようでした。
そこにわたくしの入る余地など、僅かもございませんでした。

わたくしは悲しゅうございました。
しかしそれでも、わたくしの望むのはあのお方の幸せなのです。
わたくしにはとても、その時以上にあの方を幸せにできるとは思われませんでした。
ですからわたくしは翼を広げ、夜空に飛び立ったのでございます。
 

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