空気を切って宙を駆ける。頬を撫でる涼やかな風が心地好い。
沙門の背の上、黒い水干をはためかせる保憲はしかし聞き慣れないものを耳にし、首を傾げた。

「だからおまえ、何度言ったら分かるのだ!これくらい平気だと言ったろう!?」
「平気なものか、つい最近までまともに歩けもしなかっただろう!」
「何日前の話だ!とっくに治っている!」

いつも穏やかなこの屋敷に珍しく、言い争う声が響いていた。
何者かが庭に降り立った気配に、二人の男がはっとこちらを振り向いた。

「保憲殿!」
「よりによって…」

一人は安心したような、もう一人はうんざりしたような顔をする。

「こら晴明、保憲殿に対してまでその態度は何だ」
「なに、思ったことがつい顔に出ただけだ、意図してやった訳ではない」
「尚更失礼だろうが…そうだ、今の話、保憲殿に判断していただいてはどうだ」
「これはおれ一人の問題だ、誰に聞く必要も無い」
「何回言わせる気だ、おまえが何と言おうとおれが、」
「…あの、ちょっといいですかな?」

ぐるり、再び此方に向けられた顔に問う。

「私は何を判断したらよいのですかな」
「保憲さまには、」

関係ありません、そう続く言葉を博雅が遮った。

「聞いていただけますか保憲どの。この晴明ときたら、怪我が治ってもいないのに妖を退治しにゆこうとしているのですよ」
「もう治ったと言っているだろうが…」
「おまえ、怪我をしたのか」

珍しいな。驚いて言うと、晴明は決まり悪そうに黙った。

「つい先日、私が晴明に取り次いだ話なのですが」

博雅の知り合いが、どういうわけか鬼に憑かれた。
夜毎現れその男を喰らおうとするそれに彼は怯え、博雅を通じて晴明に何とかしてくれるよう頼んだ。
そこで二人は男の元に出向いたのであるが。

「いざ鬼を封じようというその時に、その男の娘が飛び出してきて」

男を囮に結界の内へと鬼を誘き寄せようとしたのだが。
突如走り出た幼い我が子を、男は咄嗟に駆け寄り守ろうとした。
男の動きを追い、大きく方向の逸れた鬼に晴明が向かう。
巨大な鉤爪が二人に振り下ろされんとしたその時、晴明の手から一枚の呪符が放たれた。
鬼の肩に貼り付いたその瞬間、呪符は炎を上げて燃えた。肉の焼ける嫌な臭いがする。

「があっ!」

ぎょろりとした目が此方を向いた。

「おのれ、陰陽師めがぁっ!」

鬼が悶える。その隙に博雅が男を誘導する。幼子を抱えて逃げ出そうとしたが、

「逃がすか!」

再び鬼は二人に向き直る。それを逃さず、晴明は二枚目の呪符を放った。
轟、と吠える鬼に向かい印を切り、呪を唱える。
一際大きな苦痛の叫びを発し、鬼は足元からさらさらと砂のように崩れていった。

「やったのか、晴明!?」
「まだだ、近寄るな!」

晴明が腕を上げて制したが、鬼は死に瀕した目でぎらりと辺りを睨めた。
太い腕が死に物狂いで振るわれる。近くに在った長屋の一部を叩き壊し、ぐんぐんと此方に迫る。親子を庇おうと博雅は咄嗟に前に出た。

「うわ、」

しかし思ったような衝撃は無かった。胸を強く突き飛ばされ尻餅をついた博雅の目の前、白い狩衣が舞った。

「晴明!」

親子を庇おうとした博雅を更に庇ったのか、横凪ぎに払われ、崩れかけた長屋へと叩きつけられたのは晴明だった。
その衝撃に、屋根瓦が更にばらばらと降り注ぐ。


鬼は一声咆哮し、風に塵と舞った。
幼い娘の泣き叫ぶ声だけが辺りに響いていた。


「…それで、足を捻ったのと、あとは打ち身を幾つか。そうだろう晴明」

機嫌の悪い晴明を他所に博雅は説明を終えた。
保憲は何処か、面白そうにその話を聞いている。

「何が面白いのですか、保憲さま」
「で、おまえ、もうその怪我とやらは治ったのか」
「…ええ」

質問に答えなかった保憲に晴明は顔をしかめたが、それでも頷いた。

「嘘をつけ、あんな怪我がそう早々と治るわけがないだろう!」

口を挟む博雅をじろりと見る。

「怪我をしたのは、おまえか」
「何?」
「違うだろう」
「ま、まぁ、そうだが」
「なら治ったかどうか決めるのも、おまえではないだろう」
「な、────」
「違うか」

ぐっと言葉に詰まる博雅を尻目に、晴明は立ち上がる。

「いろいろと準備をせねばならんことがある。保憲さま、申し訳ありませんがそろそろ、」
「待て、晴明」

腰を上げた保憲は、庭の片隅を指差した。

「あれを見ろ」
「は?」

言われるままに目を遣ったが、いつものように草の葉が揺れているだけである。

「何か…うわっ!」

一歩踏み出した晴明の肩を、保憲がどんと突いた。
踏み留まろうとしたが、足に鋭い痛みが走る。
倒れそうになる晴明を、博雅が慌てて抱き止めた。

「っ…」
「晴明!」

顔を歪める晴明に保憲が言う。

「おまえ、それで治っているつもりなのか?」

はあ、と溜め息をつく彼を晴明はきっと睨んだ。

「何を───」
「博雅どのの言う通りだ。おまえはそれで妖物を退治にゆくつもりか」
「しかし、」
「おまえとてそれぐらい分かっているだろう。録に動けもせんのに妖をどうこうできるとでも思っているのか」
「……」
「今日は大人しくしていろ」

むっと唇を引き結んだ晴明に、博雅も続けて言う。

「晴明、先方も特に急ぎはしないと仰っていたではないか」
「……」
「今日それで行って、もっと酷い怪我をしてはいかんだろう。…これ以上おれを心配させんでくれ。な?」

その顔を覗き込む。不機嫌な顔付きだったが、やがてぷいと視線が反らされた。

「さ、決着が着きましたな」

やれやれ世話のかかる、そうぼやく保憲に、博雅はほっとしたような顔を向けた。

「助かりました、保憲殿」
「いえいえ、構いませんよ。博雅どのも苦労なさるでしょう、この男がこんな風では。たまには厳しくしておやりなさい」
「はは…」

思わず笑う博雅だったが、先程から不穏な気配を放っていた晴明がふいに口を開いた。

「成る程。では博雅、おまえの言うことを素直に聞くとしようか」
「は?」
「まず、おれはしばらく屋敷で休むことにする。陰陽寮にも当分は顔を出せまい」
「せ、晴明?」
「当然だろう、おれは怪我人だからな。言い訳はおまえが考えてくれ」
「おれか!?」
「おまえが言い出したのだ、それくらいしてくれるだろう?」

それともおれを休ませてはくれんのか?

そう迫る晴明に、博雅は怯む。その様子に保憲は吹き出した。

「ぶっ…」
「や、保憲どの…」

心底困りきった様子の博雅に、更に笑いが込み上げる。なんとよいお方だ、と思う。

「そのように笑わなくても…」

じりじりと迫る晴明をどうにか引き剥がそうとしている博雅の前で、無情にも巨大な黒い猫又が姿を現した。

「それでは、私はこの辺で」
「え、保憲どの」
「また邪魔するぞ、晴明」
「ええ、私はしばらく屋敷から出ませぬゆえ是非」
「おまえ本気なのか、」
「では博雅どの、頼みましたぞ」
「そ、そんな…」

沙門は一声高く鳴き、宙に身を踊らせた。
心地好い風が頬を打つ。
二人の姿はどんどん遠く、小さくなる。


「もう、大丈夫なのだなあ」

聞いているのかは分からないが、それでも保憲は猫又に話し掛けた。

「あんな顔も、できるようになったのだな」

嘗ての弟弟子の姿を思い出す。
何も寄せ付けない、何を望むこともしない冷悧な横顔を。
その役割を担うのが最後まで自分ではなかったことに、一抹の寂しさはあるけれど。

「あの方が、いてくれてよかった」

そう思わんか、沙門?


存外に可愛らしい声で、猫又はにゃあと鳴いた。

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