源博雅は、暇を持て余していた。
物忌みの四日目。秋の日であった。屋敷に閉じこもっているものだから、心置きなく笛を吹くこともできた。しかし気分転換に外に出ることも、人に会うことも叶わないとあっては、博雅とて気がくさくさしてきてしまう。
夕餉も終えて、日もとっぷりと暮れていた。物忌みの期間はまだ、あと一日残っている。
晴明に会いたいな、と思った。数えればもう、十日ほど顔を合わせていない。
これほど会わなかったことは今までにも何度かあった。しかし勤めにも出ず、家のものとしか顔を合わせぬこのような日が続いては、ついつい彼のことを思い浮かべてしまう。
もう彼も床についているのだろうか。それとも濡れ縁で、一人月など眺めているのだろうか。
はたまた、闇に紛れて、どこか路地裏を歩いていやしないだろうか。仕事だとかなんだか言って、晴明はしょっちゅうそういうことをしている。
危ないから止めないか、と博雅は口を酸っぱくして言うが、彼はどこ吹く風である。自分のいない今、ここぞとばかりに夜歩きをしている可能性は十分にあるのだ。
仰向けに寝そべったまま、博雅は眉間に皴を寄せた。問い詰めたところで晴明は白を切るばかりだが、何かあってからでは遅いのだ。あの悪癖を、どうにか止めさせられぬものか。
――――――かさかさ。
悶々とする博雅の耳に、小さな音が届いた。何か隙間風にでも吹かれたのだろう。
――――――かさこそ、かさこそ。
その音は再び聞こえてきた。博雅はごろりと寝返りを打ち、首を伸ばして正体を見極めんとした。
「…おまえか」
灰色の毛並みの、小さな鼠が、じっと博雅を見詰めていた。黒い瞳は濡れてつやつやとしている。博雅と視線がかち合っても、逃げることもせずに、畳の上でひくひくと鼻を動かしている。
「食い物でも探しに来たのか」
この際鼠でもよい。暇を持て余した博雅は、何の気なしに声を掛けていた。返事など無いことは承知の上である。
「おまえが気を腐らせてはおらぬかと思うてな」
だからその言葉が返ってきたとき、博雅は度肝を抜かれた。
「なっ…」
寝床の上に起き上がり、辺りをきょろきょろと見まわすが、声の主は見当たらない。
「せ、晴明。おまえか」
「おれだ」
博雅は恐る恐る視線を下ろした。なんだか呆れたような表情で、鼠がこちらを見上げている。
「この鼠、おまえなのか」
「ああ」
「…はあ」
合点がいって、博雅はどっと疲れた。そういえば以前にも、この男は前触れなく式神を博雅のところに遣わせたことがあった。最近そういうことも無かったから、すっかり油断していた。
「何だ、嫌だったか」
「そんなことはない」
「ふふん」
思わず即答してしまう自分が悔しい。それでも、得意げにひくひくと髭を揺らす鼠と、聞きなれたはずの穏やかな声に、思わず顔がほころんでしまうのは紛れもない事実であった。
「物忌みも四日目ともなるとな。暇で叶わぬ」
「ほほう、おまえでもそうなのか」
「おれでも、とはなんだ」
「笛を存分に吹く機会を得られて、喜んでいるものとばかり思うておったぞ」
「それはそうなのだが、さすがにこう邸に閉じこもってばかりおってはな。うんざりした心持ちにもなるさ」
「それもそうだな」
「おまえはどうなのだ、晴明」
「おれか?」
「ああ。近ごろは夜中にふらふら出歩いたり、坊主と夜通し語り合ったりなどしておらぬのか」
「……」
「…しておるのだな」
「まあ、そんなときもある」
危惧してはいたが、やっぱりか、という思いである。あのなあ、と博雅は頭を掻いた。
「危ないのだから控えろと、何度も言うておるではないか」
「ああ。おまえには何度も言われておるな」
「何だ。おまえ、分かってやっているではないか」
「まあな」
「おまえは本当に、おれの言うことを聞いたためしがないな」
「これでも以前より、控えてはいるのだぞ」
「本当か」
「ああ」
「どれほどだ」
「何」
「どれほど夜歩きをしておるのだ、今は。ひと月に何回だ」
「……」
しれっとあらぬ方向を向いて、鼠は後脚で耳の下など掻いている。
「こら、晴明」
「ふふん」
「まったく、これだからおまえは…」
ごろりと横になり、博雅は頬杖をついた。
「…で、今日は邸におるのだな」
「ああ」
「まだ何か、仕事は残っておるのか」
「いや、もうすぐに寝るところだ」
「それで、来てくれたのか」
「来たというより、寄越した、だな。まあ、そういうことだ」
「そうか」
博雅は、小さな口を動かして言葉を発する鼠をじっと見た。
「―――餅でも食うか」
「は?」
「いや、この鼠にな。どうかと思って」
少し前に、どうぞ、と言って家の者が置いて行ったのがある。こうして日がな一日だらだらしているだけなのだからあまり腹も減らず、なんとなくそのままにしていたのだ。
「…ああ、そうか」
「この鼠が何か食えば、おまえにも味は分かるのか」
「いや、おれには分からぬ。分かるようにしようと思えば、できぬこともないだろうが」
「なら、そうすればどうだ」
「やめておく」
呆れ交じりに一刀両断されても、博雅は気に留めなどしない。
「そうか。で、餅は」
「…好きにしろ」
「分かった」
餅を小さく千切って、博雅は鼠の鼻先に差し出してやる。彼はひくひくと匂いを嗅ぎ、小さな両前足でそれを受け取った。
「おお」
手に持った餅をちまちまと食べる、その様子が可愛らしくて、博雅はまじまじと見入った。心なしか鼠の表情が、嬉しそうにも見えてくる。
「うまいか」
「……」
「どうなんだ」
「おまえ、もしかしておれに問うておるのか」
「答えるのはおまえしかおらぬだろう」
「知らぬ」
無情に言い切られ、博雅はちぇっ、と唇を尖らせた。与えられた分を食べつくした鼠は、まだぴくぴくと鼻先を動かしている。
「まだ食うか」
「……」
「よいか、晴明」
「好きにしろと言うたであろう」
再度博雅が餅を千切ってやると、鼠は躊躇いなくそれを受け取った。もちもちと食べ進めるその様が、やはりなんとも愛らしい。
ちびちびと与え続け、それが半分ほどの大きさになってやっと、鼠は満足げに博雅を見上げた。
「もうよいのか」
「……」
「腹いっぱいになったのか」
「……」
「なあ、おまえのところの木犀は、まだ咲いているのか」
「…ああ」
どちらに問うているのか分かりやしない。晴明の返事もどこか胡乱げになる。
「ふうん。そうか」
「どうしたのだ」
「いや、うちの者が、おれの衣によい香りがついていると言っておってな。よいお香を使われるお人なのですね、と言うから、晴明の庭のものだ、と言ったのだ。目を白黒させていたよ」
「…おまえな」
「なんだ」
「…いや、何でもない」
なんだか複雑そうな晴明の声色にも、博雅はどこ吹く風である。才も身分も与えられ、男盛りの主人が夜な夜な通うのは、得体の知れぬ陰陽師の邸なのである。
それは家の者だって、勘繰りたくも、嘆きたくもなるだろう。しかし当の本人がこれである。困った男だと、晴明の方が同情を禁じ得ない。
「ああ。なんだか、おまえに会いたくなってしまったな」
そんなことを言う博雅を、鼠は呆れたように見ている。
「なんだ。今話しておるではないか」
「おまえの顔は見えぬ」
「鼠の顔があるではないか」
「確かに、こいつもかわいらしいがな。そうではないのだよ。おれはおまえ自身の顔を見て、話をしたいのだ」
「そうかよ」
「おい、本当だぞ」
「疑ってなどおらぬさ」
「本当かな」
「当たり前だろう。おれはおまえの言うことなら、いつだって信じるさ」
鼠は髭をぴくぴくと動かしている。なんだか笑っているようにも見える。
「おまえ、それはおれを、馬鹿にしておるのではないか」
「おれはそんなことはせぬぞ」
「いつもしておるではないか」
「はて。おれはそんなつもりはないがな」
「こら、晴明」
思わず鼠に手を伸ばすと、彼はするり、とその身を翻した。むう、と頬を膨らます博雅を、少し離れたところから振り返る。
「もうゆくぞ」
「なんだ、もうゆくのか。もう少しおればいいではないか」
「もう遅いからな」
「ああ、そうか。それなら仕方ない」
そういえばそんな刻限であった。自分はいいが、彼は明日も朝から勤めがあるのだろう。
「なあ」
「うん?」
「また、物忌みが明けたらゆくからな」
「鼠に会いにか」
「ばか。おまえだと言うておるだろう」
「ふふん」
耳をぴんと立てて、可愛らしい式は博雅を見上げた。
「じゃあな、博雅」
黒い瞳が、悪戯っぽくきらきらしている。それに博雅は頷いてい見せる。
「うん。またな、晴明」
「ああ」
長い尾をぷいと一振りすると、鼠はとことこと部屋の端を歩き、御簾の向こうに姿を消した。
博雅はそちらをしばらく眺めていた。耳を澄ましても、あの小さな足音はもう聞こえなかった。
腹ばいになり、燈明皿に手を伸ばす。明かりを消し、博雅はごろりと横になった。
自分が彼を想うのと同じ時に、彼もまた自分を想うてくれていたのだ。こんなに幸せなことはないと博雅は思う。
早く時が経てばいい。彼の顔を見て、手に触れたい。月下に在って白く光る、その肌を思い出す。いつも何だか寒そうに思えてしまう彼が、今は温かく安らいでいることを願った。
あの鼠は、無事に自分の穴ぐらに帰ったかな。そう思ったのを最後に、博雅は眠りに落ちた。