ぱたぱたと、屋敷に軽い足音が木霊している。常ならば眠っているように静かなのにと、博雅は椿事に首を傾げた。

「来たか、博雅」

こちらは常と変らぬ様子で、屋敷の主は濡れ縁で微笑んだ。その傍らに腰を下ろしながら、博雅は尋ねた。

「晴明。誰そ来ておるのか」

「ああ。分かるか」

きゃあ、と高い声がして、庭で一陣の風が吹いた。博雅がそちらを見ると、童が一人、庭を駆け回っていた。枝の下を潜り、叢を飛び越え、またそれが楽しくて堪らないのか、時折闇雲に歓声を上げている。むっちりとした足は沓も履いておらず、身に纏った短い着物が、無頓着にはためいていた。

「あの童は、いったい誰なのだ」

「それはな、」

そのとき、庭の向こうで童がぴたっと立ち止まり、博雅の姿を捉えた。次の瞬間、その子は全速力でこちらへ走ってきた。

「博雅!」

いきなり名を呼ばれ、博雅は目を丸くした。童は濡れ縁に両手をつき、身を乗り出して叫んだ。夕日のように、真っ赤な頬をしていた。

「久しいな、博雅!わしは覚えておるぞ!」

博雅が何か答える暇も無く、その子はぴょんと濡れ縁に上がり、また走り出した。ちょうど酒を持って現れた蜜虫に絡みついている。蜜虫は困ったように笑いながら、はためく裾を片手で押さえた。一通り跳ね回った後、再び庭に飛び降りた童を、博雅は呆気にとられて眺めた。

「おれは、あの童に会ったことがあるのか」

「あるだろうな」

笑いを含んだ声音で、晴明は答えた。

「それはまことか、晴明。おまえもそのとき、おれといたかよ」

「去年のそのときは、確かおれは居合わせなかったな。だが、おまえも毎年お会いしているはずだぞ」

「何?!」

「あの方は、春疾風ぞ。博雅」

きゃあっ、と一際甲高い声がした。晴明と博雅が振り返ると、たった今童が飛び越えた菖蒲の一群れが、ざあっと葉を揺らした。

「は、春疾風って、あの」

「ああ、そうだ」

春一番とも、春嵐とも呼ばれる、春の訪れを告げて吹く強い風。あれがこの童の正体だというのだろうか。俄かには信じがたいが、しかし博雅の名乗らぬうちから、この童は博雅を博雅と呼んだ。

 いや待てよ、と博雅は考え直した。博雅の来る前から、晴明が博雅の来訪を伝えていたのかもしれない。常日頃澄ました顔をしては、博雅を散々担いできた彼のことだ。それくらいのことはしかねない。

「なあ晴明!わしは腹が減った!」

「今用意をさせておりますゆえ、しばしお待ちくださいませ」

再び濡れ縁に手をつき叫んだ童に、晴明は優しく答えた。わあい、と歓声を上げ、童は再び濡れ縁に飛び上がった。散々裸足で走り回ったにもかかわらず、足の裏は少しも汚れていない。それを見ながら、これはほんとうに、人の子ではないのかもしれないと、博雅は少しだけ考え直した。

 

ゆるゆると杯を進める晴明と博雅の間で、童はもぐもぐと餅を食べている。頭のてっぺんでちょこんと結わえた髪が、ひょこひょこと揺れていた。

「あのう、」

「なんじゃ、博雅」

大人のような口をきく。二つ目の餅を食べ終えた、春疾風を名乗る童に、博雅は恐る恐る声を掛けた。

「私のことを、知っておられたのですか」

「当たり前じゃ。毎年見ておるのだ、忘れるわけがなかろう」

「ま、毎年」

「この前はおまえのところの瓦を、わしが飛ばしてしもうたからな。すまなんだな!」

「そ、そういえば」

博雅も忘れていたが、そんなことがあった。そのせいで博雅の屋敷の蔵は雨漏りがして、直すまでが大変だったのだ。

「立春が来たからとて、未だ寝ぼけているものどもも多いからな。いつもわしが目を覚まさせてやっておるのだ」

「いつもお務めにかかる前には、こちらに顔を出してくださるのだよ。博雅」

「腹ごしらえもせねばならんからな!」

元気よく言うと、童は三つ目の餅にかぶりついた。その姿は何の変哲もない童そのものだった。しかしもはや博雅も、春疾風を名乗る彼のことを信じる気になっていた。

 餅を食い終わると、童は今度は、桜の木によじ登り始めた。落ちはしないかと博雅ははらははらしたが、晴明は呆れたように、あのお方は風だぞ、そんなことがあるか、と笑った。それもそうかと思った博雅だったが、とはいえやはり落ち着かず、枝に腰かけて足をぶらぶらさせているその姿を心配そうに眺めた。

「あの春疾風どのは、いつもここに来られていたのか」

「ああ。何年か前に、お腹を空かせてどうにもならなくなってしまったことがおありでな。そのときにお助けして以来、毎年来てくださるようになったのだ」

「ふうん。それは知らなかったな。いったいどこから来られて、どちらへゆかれるのだ」

「西方の海から来られて、東へ進んでいかれるようだよ。もっともあのお方のことだ、相当道草を食っておられるだろうな」

「あのご様子なら、そうであろうな」

見たところ人の子となんら変わりの無い、天真爛漫そのものの姿であった。その気の赴くまま、其方此方でふらふらしながら進んでいくであろうことは想像に難くない。

「しかしまあ、…あ、危ない!」

博雅が叫ぶのと、童が木の上からひょいと身を躍らせたのは同時だった。博雅の背よりも上、常ならばとても無事では済まない高さからの跳躍だったが、人の形をとった春の嵐は、難なく着地して見せた。その勢いのままこちらへ走ってくると、彼は目をきらきらさせて叫んだ。

「驚いたか、博雅!」

「お、驚きましたとも」

心から博雅が言うと、嬉しげに歓声を上げ、童は再び庭の奥へと走って行った。その後ろ姿を呆然と見送る博雅を、晴明はくすくすと笑った。

「本当に、嵐だな。振り回されるばかりだ」

「そうであろう。…見てみろ、博雅」

「ん?」

晴明の指さす方を見た博雅は、驚きの声を上げた。先程までは寒そうに、ただ緑の葉を縮めていた菫や仏の座、蒲公英が、それぞれゆっくりと蕾をもたげていた。その茎のしなやかさを、天まで伸びんとする生命力を、博雅は惚れ惚れと眺めた。

「さすが、春を呼び覚ますお方だ」

「あらゆるものが、目を覚ますようであるなあ」

童が飛び跳ねればどうと風が吹き、笑えば庭全体がさざめいた。桜に鶯が飛んできて止まったが、未だ囀りを会得しない己を恥じてか、間もなく飛び去った。

     

 

 

 

 

 

夕暮れ時、蜜虫が夕餉の支度をすると言うのに童が付いて行ってしまうと、辺りは途端に静寂に包まれた。瓶子に少しだけ残った酒を、晴明は博雅の杯に注いでやった。

「あのお方は、しばらくここにおられるのか」

「いいや、今夜には発たれるだろうよ」

「そうなのか」

「いつもそうだからな」

濡れ縁に落ちた木の葉を、晴明の白い指先が拾い上げた。木登りをした際に、春疾風の身体にくっついていたのだろう。晴明は膝立ちになり、濡れ縁の端から放った。はらはらと舞い落ちる葉が地に着くのを待たず、博雅は晴明を引き寄せた。

「博雅」

目を丸くして見上げる晴明に、博雅は無言で口付けた。こうして顔を合わせるのは、実は久しぶりだった。本当はもう少し早くこうしたかったが、人に非ずとはいえど、いとけない童のいる前では事に及ぶわけにもいかなかった。

「ん…」

何か言い募ろうとする口を更に塞げば、晴明もやがてそれに応えた。縋るように背に回された腕に気を良くし、その身に手を這わせると、晴明は身を捩った。

「博雅、だめだ、…あ、」

「本当か?」

敏感に反応する身体に真偽を問えば、晴明は無言で博雅を睨んだ。早くも熱に浮かされた瞳には説得力は無く、再び唇を捕えた博雅に抗う力を晴明は持たなかった。掻き抱かれた背を反らし、身体を預けた晴明は、既に博雅に囚われていた。

「何をしておるのだ?」

ふわりと風が吹いた。無邪気な声に、身を寄せ合った二人は慌てて離れた。いつの間にか戻ってきていた春疾風が、濡れ縁の端から無邪気にこちらを見ていた。

「なあ、何をしておったのだ?」

「いやその、これは、その」

「親愛を確かめる、挨拶のようなものです。人と人との間では、このようなことをするのでございます」

博雅の狼狽を繕うように、晴明が答えた。

「楽しいのか?晴明は何だか、苦しそうに見えたぞ!」

「いいえ、あの、苦しくはございませぬ」

さすがに少しばかり答えに窮したが、童はそれでも納得したようだった。走り寄るなり、童は晴明に飛びついた。

「わしもする!」

「は?」

「わしも、それをやってみたい。こうか、晴明」

「駄目です!」

晴明の首にしがみつき、顔を寄せた幼子に、博雅は思わず大声を上げた。四つの目が驚いたように、博雅を見た。

「博雅、」

「何が駄目なのじゃ」

晴明にしがみついたまま、童は問うた。怒りなどは感じられない、静かな声だった。しかし晴明はまずい、と内心呟いた。

「言うてみい、博雅。なぜ、わしは駄目なのじゃ」

童のように振る舞っても、人ではない。空を馳せ、大地を目覚めさせる神だった。自然は多くを許容するが、侵されることは許さない。人間風情が怒らせてしまっては、まず無事ではいられない。

「春疾風どの、これは」

「申し上げます。ただいま私たちが行っておりましたことを、晴明は挨拶と申しましたが、じつはこれは、もっと特別なことにございます」

「特別か」

「さようでございます。これを許しますのは、生涯を共にせんと誓い合った者同士のみ。すなわち、決して軽々しく行うようなものではございませぬ」

晴明の膝から降りた童は、博雅の眼前に立った。真っ直ぐな目をしていた。

「では、ぬしらもそうなのか。この先、共に生きてゆくと言うのか」

「さようでござります。ですから」

「わしが横入りしてはいかんというのだな」

「恐れながら」

博雅と春疾風の視線が、まっすぐにかち合った。晴明はただ、二人の顔を見比べるより他なかった。

「わかった!」

大きな口で叫び、くるっと後ろを向くと、童はとたとたと濡れ縁を走り去った。みつむしー!まだかー、腹が減った!と、子どもらしい声が木霊する。

「はー…」

「博雅、おまえ、何を考えている」

晴明がいつにない剣幕で、博雅に詰め寄った。身の程も知らず、大いなるものに逆らったために、不幸な結末を迎えた人間を、晴明は幾度となく見てきた。人が神を妨げるなど、あってはならぬことだった。先程の対峙の瞬間も、晴明は大いに肝を冷やした。

「ただの童子ではないのだぞ。あのようなお方だからまだよかったが、もしお気に障っていたなら、どうなっていたか分からんのだ」

「すまぬ。…でも、嫌だった」

「嫌だったって、おまえ…」

「相手が何であろうと、おれは嫌なのだ。おまえに、おれ以外の誰かが触れるなど」

晴明は、額に手を当てた。

「…分かった。分かったから。でもせめて、相手を見ろ」

「嫌だ」

「なあ、そのようでは長生きできぬぞ、博雅」

「おまえに誰かが触れるのを見逃してまで、長く生きたくなどない」

「おまえな…」

強固な意志のもと固く引き結ばれた博雅の口元を見て、晴明はため息をついた。

「…好きにしろ」

「うん」

途端ににこにこする博雅に、晴明はため息をつく。言いたいことの半分も伝わっていない気もするが、それでも。

「さっきのに、免じてな」

「なんだ、晴明?」

「なんでもないさ」

生涯を共にすると、何の迷いも無く断言された。そのとき、確かに嬉しかった。

空には二つ三つ、星が瞬き始めていた。

 

 

 

 

 

 

「わしは、そろそろゆくぞ」

夕餉の後、唐突に春疾風は言った。立ち上がった彼に、晴明は驚くことなく、深く頭を垂れた。

「承知いたしました。此度もお立ち寄りいただき、誠にありがとうございました」

「こちらこそ世話になったな。また来る」

「お待ち申しております」

童はくるりと、博雅に向き合った。

「ではな、博雅。達者でな。また会おうぞ」

「ええ、是非に」

「道中、お気を付けて」

子どもらしくにっと笑うと、春疾風は濡れ縁へと進み出た。二人の見守る前で、童は庭へ向かってぽんと跳んだ。

 途端にどうと、強い風が吹いた。庭の草木がざわざわと揺れ、博雅は思わず目を瞑った。顔に当たる風を感じなくなってからそっと目を開けると、春疾風の姿は既にどこにも無かった。灯明皿の灯りは掻き消され、月の光だけが二人を照らしていた。

「行ってしまわれたのだな」

「そうだな」

晴明が、柱に背を預けた。博雅は後ろ手を付き、夜空を見上げた。共に過ごした時間は束の間であったが、ふいに賑やかさを失われたことで、博雅は一抹の寂しさを感じた。

「また来年も、お会いできるかなあ」

「きっとできるだろうよ。それにもちろん、明日は春一番が吹き荒れるだろうしな」

「はは、そうだな」

笑い、叫び、庭を駆け回っていた姿を思い出す。春という季節のもつ生命力を、押し固めたような存在だった。明日はさぞかし都も荒れるだろう。人も自然も、一息に目を覚ますだろう。

「…なあ、晴明」

「うん?」

月明かりを宿した目が、ひどく美しかった。

「先ほどの、続きをせぬか」

晴明は、喉を鳴らして笑った。

 

 

 

 

 

     

 

 博雅が目を覚ました瞬間から、風は荒々しい程に吹き付けている。先に目を覚ましていたらしい晴明は、博雅の腕の中で、すごいな、と呟いた。

「今年は特に、張り切っておいでのようだな」

「腹ごしらえも十分にしておられたからな」

「違いないな」

いつまでもごろごろしていたいが、博雅とていい大人である。もそもそと身支度をする恋人を、晴明は面白そうに眺めた。

「なんだ、晴明。そんなふうに見て。おれのなにか変か?」

「いいや。いつも通り、よい漢だぞ」

「ばか、からかうな」

博雅の背後にまわり、晴明は身支度を手伝ってやった。黒袍のお端折を格袋で覆ってやりながら、晴明は声を上げて笑った。

「ほら、できたぞ」

「すまんな。ありがとう」

博雅を見送りに、晴明は玄関までついてきた。気怠げに柱に凭れると、単衣を纏った肩に黒髪がさらりと流れた。

「気を付けてな、博雅」

「晴明」

「ん」

そっと抱き寄せられ、晴明は大人しく身を任せた。別れ難く思いながら髪に頬を寄せ、博雅は深呼吸した。いつもの匂いだ、と思った。かすかに甘いような、ほんのりと身のうちが暖かくなるような。

「また来る」

「…待ってる」

今一度唇を合わせる。本当に大事なもののように、博雅、と晴明が小さな声で言った。それきり彼は何も言わなかったが、それだけで十分だった。たとえ相手が誰でも、触らせたくないと思った。

玄関から一歩外に出ると、博雅の袖がはためいた。よろけてしまいそうな強い風に真っ向から立ち向かうべく、博雅は気合を入れた。

この日博雅の屋敷では、瓦が五枚ほど飛んだという。

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